破急風光帖

 

★  日日行行(291)

2020.02.20

* 今回のパリ滞在は、結構、忙しくて、ブログに戻ってくる余裕があまりありません。多少、原稿は書いているのですが、古い友人たちに次々と会ったり、アパルトマンの電気のトラブルがあったり(停電したりしましたので)。でも、いちばんは、さて4月からのわが生の新しい季節にどう向かうかを自問したりしているからかもしれませんね。

 そんななかで、パリのアパルトマンに置いてある自分の昔の本をちょっと読み返したりもするのですが、奇妙に感動したのが、『思考の天球』(水声社、1998年)かな。90年代に雑誌『IS』に書かせていただいた詩的テクストを集めたものですが、わたしの精神の基本的な構えは全部ここに出ていると思いましたね。40歳前後にわたしを襲ったある種の「危機」を乗りこえたあとの自分の存在感覚のすべてが書かれていると思います。
 だから、わたしがどのように形成されたのか、ということで言えば、1)『若い人のための10冊の本』、2)『君自身の哲学へ』、3)『思考の天球』、あるいは4)「海の真理」(『光のオペラ』)、という順序になるかなあ、と。まあ、こんなこと誰も関心がないでしょうけれど。
 いずれにしても、学術論文なんてまったく書いてませんね。これに続けて、5)『歴史のディコンストラクション』、『存在のカタストロフィー』がいわば、「冒険譚」としてきて、それが最終的には、6)いま個人誌で書いている「火と水の婚礼」に至るということかな。

 当然ですけれど、こういうエクリチュールを通じて、それなりにわたしが書いてきたポエジーには、誰も興味がない。まあ、ほとんど誰も読まないし。誰からもなにか言われたことがない。人は、他者の「存在」には興味がないので、まったく当然。でも、そこに、わたし自身は、いま70歳になって、わたしにとっての「存在」という「法」!が書かれていると感じます。
 「わたし」とは、この「法」である。それ以外にはない、と。ようやく覚する。
  少なくとも40歳以降、ずっと「ここ」にいる。その「ここ」がようやく、そうだ、と感覚できる、そういうことかもしれません。ずっと「ここ」にいるよな、と。これからも、きっと。
 そのように「流れていく」んだ。そのことを理解するための「パリ」であるように思います。
   (まあ、「寝言」ですね。それでいい、自分でもなんでこんなこと書いてるんだろうといぶかしいですから)。


↑ページの先頭へ