破急風光帖

 

★  日日行行(267)

2019.10.20

* ひさしぶりに「怒濤の1週間」でした。月曜に丸和育志会の「優秀プロジェクト」の審査。水曜に青学の授業。金曜が本郷のEMPの講義で、朝が「世界文化のマクロパースペクティヴ」の講義105分、連続で中島さんらと「ライティング」の講義。昨日土曜は、如水会館で日本証券奨学財団の会で200名の聴衆を前に、またしても中島さんと『日本を解き放つ』めぐっての対話講演。夜は、そのままNHKに赴いて毎度ながら「クール・ジャパン」の収録でした。

 でも、それだけではありませんね。12月に筑摩書房から刊行予定のプリマー新書のタイトルが、『若い人のための10冊の本』と決まったり、水声社から出していただく予定の、わたしのフランス現代哲学とのかかわりを追う書物のロード・マップが決まったり、と「本」へのパッションは、衰えるどころか、ますます燃えるばかりかな。
 新しい「哲学」の地平を開かなければならない、という思いも強いのですが、同時に、自分がやってきたことを、見通してみたいという気持ちもある。それは歳の効果なのでしょうけれど、だから青学の授業でも、十数年前に書いた「祈りのコロナ」の論文を再論してみたりしました。
 この論文、400字詰め100枚くらいの長編で、わたしとしては、ある種の覚悟をもって、新しい境地にとびこんだつもりだったのですが、まったく反応はなく、なんとなく気落ちして、その後、その路を追求するのを躊躇したままでした。もう一度、これを取り戻して、この続編をなんとしても書かなければと思っているのですが。
 「木」としては同じ「木」ですから、十数年前、いや、二十数年前に書いたものを読み返してみても、なるほど、すでにこんなことを考えていたのだなあ、と自分では納得なのですが、葉っぱは多少、こうして繁ってはいるが、「花」がないね。「花」が咲かない。「蕾」くらいはあるのかなあ、と、先日、農協で買ってきて「投げ入れ」で活けたまっかなケイトウや萩などの燃え上がる花々をみながら、どこか忸怩たるものがありますね。ぼくのフィロソフィアはいったいどこに向かって咲くんだろう、と。
 昨日の中島さんとの対話講演でも、つい、わたしは、若い人たちに向かって「勇気が必要なんです」と叫んでいましたが、それに加えて、中島さんもわたしについて「野蛮な知性です」と最大限の褒め言葉を言ってくださったのですが、それでもなお「勇気」が足りないのかもしれないと反省する秋の日曜の朝です。Furor Sanctusよ、来れ!ーーー動かないグレーの雲の波に向かってそう呟きます。


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