破急風光帖

 

★  日日行行(251)

2019.07.13

* どうも最近はブログに書くことが、楽しく遊んでいることばかりのようではないか。少しは読んでいる本のこととか、書いていることとか、語るべきではないか、とも思うものの、ついそちらに筆が走ります。

 昨夜は、上野の東京文化会館にオペラを観に行きました。プッチーニ『トゥーランドット』(大野和士指揮、バロセロナ交響楽団)初日。じつは風邪が抜けず、咳が心配で各幕ごとに喉飴をしゃぶり、密かに水を用意しての観劇でしたが、感激しました。昔、十数年前かに、ベルリンで観て以来ですが、あのときはこの作品がよくわかってなかったと、今回いろいろ刺さってくることがあって、ようやく自分なりの理解の糸口がつかめたかな。
 アレックス・オリエの演出はなかなか素晴らしかったのですが、問題の劇最後の結末の処理の仕方など、いくらか違和感がないわけではありませんでしたが、なんといっても、トゥーランドット役のイレーネ・テオリンの突き抜けた声とカラフ役のテオドール・イリンカイの好演に圧倒されました。でも、今回は、それ以上に、「謎」、「存在の名」を中心とする劇の本質にうたれました。なにしろ、リューの死の直後に、ひとこと、これは詩、Poesiaだという言葉が発されるのですから。こんな言葉があるのかと、幕間に思わず台本を買って、帰りの電車のなかで読みふけりました。

 わたしの勝手なオペラ世界のなかでは、トゥーランドットは夜の女王につながり、カラフは、パミーノ、さらにはタンホイザーにつながります。そして、タンホイザーは、わたしにとっては、ある意味では「わたし自身」ですね。そして、今回は、人間存在の「謎」と「名」と「愛」、わたしが考えようとしていることと近いものがあります。
 オペラというのは、ある意味では、人間がそこで再定義される祝祭の場であるようにも思いますね。音楽と哲学が結合しています。その「響き」ーーー「トゥーランドット」ではそれは「大気の一面の香り」と表象されていましたけど、ともかくおよそ演奏者、歌手、合唱隊、それだけでも200人くらいでしょうか、この多くの人たちが創り上げる上質の「祝祭」に酔いましたね。オペラは、ほんとうにもっとも高度な人間の「祝祭」だと思います。

 でも、ほんとうは、これは原稿を2本書いたら、その「ごほうび」で自分にゆるすという約束だったのですが、2本書けてないんですねえ、だめですねえ。カラフにならって「原稿は三つ、命は一つ」とかダジャレで逃げていないで、この連休、少なくとも1本は仕上げなければ・・・・


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