破急風光帖

 

★  日日行行(235)

2019.03.29

* 櫻も咲いて、3月ももう終わり。この1週間はひさしぶりに「静かな」1週間でした。

 先週末の「モノガタリ」での國分さんとのトーク、楽しかったです。いろいろな方が来てくださって、またいつものように國分さんのとても優しい、うまい反応誘導もあって、わたしもこれまであまり人前で言ったことのない、政治的なものへのわたし自身の「態度」について語ったり。とてもシアワセな会でした。
 おもしろかったのが、國分さんがこのトークのために、93年にわたしが編集した「ルプレザンタシオン』第5号の大澤・浅田・松浦・小林トークのわたしの発言を、コピーを配って、紹介してくれたこと。もちろん、すっかり忘れていたのですが、この四半世紀のあいだの自分の「思想」と「態度」についていろいろ感慨深く思い出しました。ある意味では、そのときから少しも進歩していないとも言えるし、そのときから一貫している、とも言えるし。あえていわゆる政治的なアンガージュマンを声高には表明することなく、むしろ駒場という「現場」である種のポリティックスを問う思考を実践しようとしたわたしの「態度」が問い直される機会でもありました。
 そうね、そろそろ「審判」されるべき時が来ているのかもしれませんね。おまえはいったい何をやっていたんだ?と問われる、そんなモーメント。もちろん、「最後の審判」などではありません。永遠に続く無限の「審判」のひとつにすぎませんけどね。
 いずれにしても、すばらしい学生たち、同僚たち、友人たちに恵まれたなあ、とあらためて、自分の人生をありがたかった、と思えた年度末でした。

 そう、「モノガタリ」のトークのあとで、来てくれたひとりの女性が、1冊の本を手にわたしに近づいていらした。その本は、なんと84年にわたしが訳したデュラスの「死の病い」が入っている本。それを差し出しながら、彼女は、わたし、この「死の病い」で人生救われました、と。もちろん、それはデュラスの言葉の力であって、わたしの力ではないのですが、文学というもののほんとうの力をのぞきこむような瞬間でした。その力がある人に届けられるのに、わたしの翻訳が役たったなんて、こんな嬉しいことはありません。30年以上も経って、そういう「真実」がわたしに届けられる。家に帰って、老人の感傷!、ちょっと泣きましたね。

 パリのイレーヌさんからメールが来て、わたしたちのアーティスト・ブック、すでにイメージが到来しているので、はやくタイトルを決めてね、と。で、とりあえず、D'eau et de feu(水と火と)となりました。さあ、この草稿を仕上げなければ。ほかにも仕事はたくさんある。前へ、蹌踉と。彷徨いながら。(近くの農協で椿の小さな苗を買って、ベランダの鉢に差してみました。ピンクの丸い蕾がいくつか、さあ、咲くかな、開くかな?)
 
 


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