★ 日日行行(225)
* さあ、そろそろ今回のパリ滞在も終わりが近づいてきました。
昨日は、はじめてかな、誰とも約束が入ってなくて、昼は、前日のキニャールさんとの対話を短いテクストにまとめたり、詩的テクストを続けたり、その後、日本文化会館に行ってFUJITAの展覧会を観ました。いい展覧会でした。かれの最初期の3枚のパリ郊外を描いた作品の「孤独」に圧倒されましたが。どんな華やかなキャリアの背後にも、かならずこの「孤独」がある。オーセンティックな「孤独」。パリとはそれを生きさせてくれる街ですね。佐伯祐三もそうだった。日本ではそれが湿った、甘えの腐ったものになる。嫌ですねえ、「孤独」が孤独として残酷なまでにくっきりと輝く、そこがパリという石造りの街の「意味」です。
わたしにとっては、フランス語を学ぶということはそれを生きるということであった。
いま、ここでこういうブログを書いていると、楽しそうでいいなあ、と思う人が多いでしょうけど、わたしがどのくらいの覚悟でこの世界を学ぼうとしたか、わからないだろうなあ。フランス語は、わたしにとっては、すべてを包みこむものだったんですね。哲学も詩も芸術も、すべて!駒場でわたしが教えていたのは、便利なフランス語などというものではなく(そんなもの大学で教えるに値しない!)、一個の外国語の世界を生きる、愛するということがどういうことかを生身をさらしてみせるというだけ。わたしは、一冊もフランス語の教科書なんて書いてませんよ。わたしの愛は、文法の教科書なんかになるわけがない。
「先生の根底には、なにかモラルがありますよね?」と、数日前にモンパルナスでいっしょに夕食をした、院生の福島亮さんから問いつめられましたけど、そう、モラルというなら、激しさへの渇望かな。激しく生きるのではなければ意味がないということ。自分を甘えさせて、たえず愚痴を呟いている腐った心が嫌だということかな。
FUJITAもそうですけど、オーセンティックな芸術家はかならずそれがある。わたしが先日会ったミケルだって、3週間奥さんの故郷のタイの奥地にある意味ではヴァカンスに行くのに、35キロの画紙をもって行かないではいられないんですよ。それがパッションというもの。それに比べれば、わたしはだめだなあ、激しさが足りないなあ、といつも思います。
わたしが個人編集雑誌みたいなものをつくろうとするのも、けっして趣味などではなくて、わたしにとっての「激しさ」の実践です。ささやかな激しさですけどね。
昨日は、もうひとりの「姉」であるヴィオレーヌさんからも電話。ブルゴーニュに住んでいるのですが、「インフルエンザにかかってダウンしてて電話もできずごめんなさい」と。さらに、南仏のミッシェルさんからも「もう帰るのね、直接、お礼を言いたかったから」と電話。とくれば、最後は、ブラジル人の「姉」のサンドラさんから、「週末に会いましょうよ」と。で、今夜はパスカル、サンドラさんたちとレストランにでも行こうかな。すてきな女性たちのフランス語の「声」が耳に響いた1日でした。では、わたしのフランス語の「声」はどう響いているのかなあ? 少しはやわらかさと深さが響いたりするのかしら?喋りながら、いまだに、下手なフランス語だなあ、と自嘲気味ですけれどね。外国語は、あくまでも「外」。でも、それは「わたしの外」、「外部の思考」ですね。