破急風光帖

 

★  日日行行(188)

2018.11.06

* 「夢見るように考えることが、もっとも遠くまで考えることであるような場合もまたあるのだ」と書いているのは、わたし、というより、わたしの本の帯の言葉。『思考の天球』(水声社、1998年)ですから、はや20年も昔、200頁あまりの小さな本。

 先週、まったく偶然に大学の研究室の書棚の隅にあったこの本を手にとって頁をぱらぱら、20年ぶりに読みかえしました。これは、雑誌の『IS』に書かせていただいた文章を集めたもの。雑誌の特集に応じて、壁からはじまって、北、秋、乳房!、養生、占、白砂青松、滝、などなど与えられたお題を受けて、けっして論じるという姿勢ではなく、筆が赴くままに書いた詩的散文。本としては誰からも読まれなかったものなのですが、先週読み返して、そうか、この本のなかに、わたし自身のある種の哲学は全部書かれているなあ、とつくづく思いました。生死も魂も存在も自然も世界もあらゆることが、ある仕方で!すでに書かれている。わたしの「哲学」はここにあるなあ、と。そして、それは、じつは、誰もわからないだろうけれど、わたし自身がひとつの境界線を40歳前後に超えたことによってもたらされたもので、実存的に基礎づけられた思考なんだよなあ、と。その意味では、いかなる対象も論じていないこの詩的散文のアンソロジーこそ、わたしの「主著」でもあると思ったりもしました。
 いまは亡き田原桂一さんが撮ったクロアチアの教会の美しいブルーのドームの写真が表紙です。
 こういう振り返りがなにか意味=感覚をもたらすというのが、年をとった証拠なのでしょうけれど、人生には、あとからしか、見えてこないことってたくさんありますから。
 この本、自宅にもあまり残部がなかったので、あわてて水声社に5冊発注しました。これから名刺がわりにこれ配ろうかしら・・・??


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