破急風光帖

 

★  日日行行(183)

2018.10.14

* 昨日は、誰にも内緒でひとり新国立劇場に「魔笛」を観に行きました。先日、ポリーニこそ、わが生涯に随伴してくれたピアニストと書きましたが、その意味では、「魔笛」は間違いなく、わたしの人生に随伴したオペラです。この歳になると、そういうことを思ってしまいますね。音楽というのはそういうところがある。伴奏というのではないが、付き添ってくれるというか。

 わが人生、「魔笛」の舞台との最初の出会いは、79年だったか、ザルツブルグで見た人形劇の「魔笛」。後にわたしの妻となる人といっしょに観ました。それから、あちこちで観ましたね。ほんとうの舞台は、93年頃か、パリでボブ・ウィルソンの演出かな(これもびっくりの演出でした)。それからも、ニューヨークのMetで衝撃的だったデイモアの演出とか(「魔笛」を演出するというわたしの密かな夢を打ち砕くものでした)。ベルリンでは、高田さん北川さんという東大の同僚と観たり、3、4年前にはウィーンのフォルクス・オーパーで安いチケットで立ったままで観たりもした。もちろん、日本でも2008年の日生劇場の公演、そして今年の公演と2回もプログラムに寄稿させていただいています。
 正月には「魔笛」のDVDを一本観るのが長年の儀式でもありました。もちろん、ベルイマンのあの素敵な映画以外にも数本の映画DVDも観ています。今年の日生劇場のプログラムでは、無人島にひとつだけなにかもっていくというおきまりのテーマが課せられたら、わたしは「魔笛」をもっていくのだ、とまで言っていますからね。
 面倒くさい蛇足をつけくわえておくと、オペラを観ないでシンフォニーだけでモーツァルトを論じた小林秀雄に対して、小林康夫はオペラこそモーツァルトの音楽の真髄だよ、とか言ってみたいのかもしれませんね。

 昨日の公演は、ウィリアム・ケントリッジの演出。劇場をカメラに見立てて、映像をふんだんに使ったなかなかおもしろい演出でした。同時に、わたしのなかには、映像を投影して空間をつくってしまうことに若干の違和感がないわけでもない。映像はなんでもできてしまうのだけど、そのぶん、オペラの「舞台」そのものは、以外と単純で。たとえば最後のパパゲーノとパパゲーナの二重奏のときに、卵から小鳥がいっぱい孵ってとんでいくのを映像で処理してしまえば、とても簡単。わたし自身は、それを舞台でどう表現するかに興味があるんですけどね。でも、逆に、夜の女王のアリアの背後に、宇宙の光景が広がって、惑星が周回するイメージを見せられたときは、ちょっと泣きました。だって、「魔笛」の全体を太陽系におとしこむというのがわたしが昔考えた演出プランだったので。やられちゃった、みたいな。
 ローラント・ベーア指揮の音楽も各パートのニュアンスがきれいに出ててよかったです。ザラストロのサヴァ・ヴェミッチの深いバスの声、そしてなによりもパミーナの林正子の力があってやわらかな声に感動しました。わたしのBravo!はこの二人に。とくにパミーナの最後のアリア(死を覚悟した悲しみの歌ですが)のMûttter(お母さん!)という響きがニュアンスに富んでいて心うたれました。
 この10月は、こうしてわたしにとっての人生の音楽を、最高の水準で堪能できた月でした。10月らしいね。こうなると、いいジャズも聴きに行きたいかな。やはりサックスが聴きたいな。


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