破急風光帖

 

★  日日行行(179)

2018.09.29

* 9月も終り。金木犀の香りただよう美しい日があったと思ったら、日本列島はまたしても颱風。なんという苦難の列島であることか。Désastreという言葉が「星に見離されて」であることを思います。星に見離されて、しかしこの時間を生きる。

 月曜の日高さんとの対談は楽しかったです。彼女の純粋さがよく出て、その過激に、来てくださった方々もあらためて頷いてくださっていたと思います。水曜には青学の授業があり、昨日、金曜にはBizArtsのためのインタビュー撮影。でも、これで9月の予定がなんとか無事に終ったという安堵の感覚です。
 前ブログには、四元数の理論化への決意を述べました。さっそく断片を書こうとするのですが、やはりそう簡単には行きません。やはり計算ベースの数学を、存在論に応用するのは無理がある。難航しています。
 やはりわたしにはわたしなりに出来上がってしまっている精神のアルゴリズムがあって、それを使って文章を書いてきたわけで、よく人に言われますが、結局は「Yasuo節」みたいなものがある。昨日もBizArtsのインタビューのために、自分の『絵画の冒険』を必要があってちょっと読み返したのだけど、あの本は、ほんと、絵画史の本ではなく、わたしがひとつひとつの作品/作家の「激しさ」に触れようとし、その「激しさ」を通して「歴史」をなんとか理解しようとした「冒険」。つまりは、「Yasuoの冒険」なんだなあ、と。美術史をまじめに!研究している人は嫌だろうなあ、こういう書き方は、とつくづく思いましたね。嫌われるよね。でも、知ったことか。わたしはこういうふうにしか書きたくない。事実と知識を並べただけの「研究書」なんてつまらない。「冒険」がなければ、ね。金木犀の香りのする「冒険」なんていいなあ。どう考えても、わたしの場合は、薔薇の香りではなさそうだし。花が目立たないのがいいですね。

 そうそう、だいぶ昔、表象文化論の学生だった平芳裕子さん(神戸大学)が、昨年秋、わたしも審査に行ったのでしたが、博士論文を本にして刊行しました。アメリカのファッション文化史を論じた『まなざしの装置』(青土社)です。子育てをし、教員の仕事をしながら、あきらめずに研究を続けてとうとう博論へとまとめた。Bravo!です。ここにも「過激な純粋さ」があるかな。嬉しいです。
 
 (立石はなさんが送ってくれた駒場の金木犀の写真を追加しておきすね。)

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