破急風光帖

 

★  日日行行(176)

2018.09.15

* 昨日の朝、自宅で朝食、フランスから来たミラベルを食べているときに、プチ・ユーレカ!その前々日のパネルで少しだけここ数年間考えている、数学者のハミルトンの四元数Quatenionを軸にした想像的なものの再構成のマトリックスに触れたこともあって、停滞しているその理論化作業のことをぼんやり思っていたら、そうか、虚数実数の割当てについて、根本的な間違いを犯していたのかもしれない、と閃きました。

 それでどうにかなるというわけでもないのですが、少し見通しがよくなった気がする。そして、それは、やはりパネルで一線の数理科学者や脳科学者と対話していることが影響していると思います。断片的なテクストをいくつか書いただけでストップしているこの作業を、やはりやり遂げたほうがいいのではないか、と思えてきました。停滞は、忙しいということもあるけれど、本質的には、自分のなかで「こんなことやっても意味がないんじゃないかなあ」という懐疑が抜けないからですね。新しい方法論はいつでも懐疑にぶちあたります。誰も理解してくれないだろうなあ、みたいなこともある。でも、まあ、自分のためにだけでもやるしかないかな。風立ちぬ、il faut tenter d'écrireですかね。

 昨夜、BizArtsの延期されていた講演も無事終って、9月の山場は超えました。あとは、24日の祝日六本木の小山登美夫ギャラリーで画家の日高理恵子さんとの対談。「見ること」をめぐって。日高さんの展覧会にあわせた企画です。ただし、すでに予約席は満員だそうですが。先日、この展覧会のオープニングにも行ってきました。昨年刊行された日高さんの作品集にわたしは文章を書かせていただいているのですが、そこでは「日高理恵子は人として美しい」と書いてしまいました。
 「人として美しい人」、あんまりいませんよねえ。わたしが素直にそういうことばを捧げることができる数少ない人ですね、日高さんの樹を見上げ続ける眼差し。その過激な純粋さ。美しいということは、そういう過激な純粋さにささげられたことばです。わたしもそうありたいけど、Purify! もっといろいろなものを捨ててしまわなければ・・・・
 


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