破急風光帖

 

★  日日行行(171)

2018.08.11

*「Bartokには、救いも祈りもない。焼けただれた大地を、祈りもなく歩けるものなのか?
 何を聴いているのか? Mozartのときにはけっして考えつきもしないこの想念がわたしを苦しめる。Andanteのあのまったく艶のない暗さ。カラカラに乾ききっている。しかし、あの動き。激しさ。音楽の要請。/ Andantinoは悲しんでいる「音楽」である。しかもかくも痩せ衰えて・・ここでは「音楽」自体が「他」なのだ。あるいは「音楽」の不在を、いや、みずからの不在を告知する「音楽」。/少なくともBartokにとっては「彼岸」はない。」

 これは、じつは、わたしが1973年に書いていたノートの一部。23歳の秋。そのとき、同時に、フランス語でマネなどについての卒業論文を書いていた。だが、なぜかベラ・バルトークの弦楽四重奏曲第6番を十数頁にわたって、楽譜も書き込みながら、分析していた。そのノートを、なんと昨夜、人前で読み上げてしまった。
 これは代官山未来音楽塾での講義。ほんらいは「リベラル・アーツ」についての講義を頼まれたのだったが、自分自身にとっての「音楽」経験がどういうものであったのかを、振り返って、語ってみるという仕掛けにした。それは、ちょうどこの講義を頼まれたときに、実家の整理をしていて古いノートが詰まった段ボールのなかから、このバルトークのQuartetについての記述をみつけたから。そんなものを書いていたとはすっかり忘れていたのだが、すでにそれから45年の歳月が流れているのだが、このけっして誰も読まなかったわたしの個人的なノートに、「いま」という時間を与え返してみたくなったというわけ。まあ、読み返してみて、それほど恥ずかしいとは思わなかったということがあるけれど。カフカとバルトークを並べてみながら、直後に祖国を捨てて亡命するバルトーク、そして母を失うバルトークの「悲しみ」に迫ろうとしたその若々しい格闘の痕に一瞬、光をあててあげたかったということかもしれない。いやあ、23歳、もちろんいまの眼から見て、不十分だなあと思うところはあるけれど、発想そのものは、いまでも首肯することができる。いまの68歳のわたしとつながっている精神がそこにはある、と感じられますね。
 バルトークの次は、武満徹さんという美しい人と出会えたことの衝撃を語り、さらにはルイジ・ノーノさんを駒場に迎えたときの話や、神奈川県立音楽堂で一柳慧さんとともに5年にわたって芸術を問うイベントを実行した話もしたりして、音楽との出会いがわが人生にもたらしてくれた途方もない豊かさをあらためて思い返しながら、音楽への深い感謝を語ったつもりです。
 そして最後は・・・?何で締めくくったでしょう?これは昨夜、会場にいた方だけが知っている秘密ということにしておきましょうかね。
 ある意味では、わたし自身が感動することができた一晩でした。

 颱風の影響で、予定していたBizArtsの講義が流れてしまいましたが、とりあえず半月ほどは、外部の仕事はありません。ようやく夏休みというべきか、ようやくエクリチュールの季節というべきか。夏よ、夏の夜よ、おまえを抱きしめよう。


↑ページの先頭へ