破急風光帖

 

★  日日行行 (165)

2018.06.25

* 20年以上前に書いた自分のテクストを、人々の前で、読み上げるというパフォーマンスをついやってしまった先週でした。

 これは老人性ナルシシズムなのか、知らず、躊躇いがなかったわけでもないのだが、えい、ままよ、と思いついたので実行してしまいました。

 最初は、水曜日の青山学院の授業で。「日本の美のトポス」が問題だったのですが、前週の原瑠璃彦さんの「松風」についての発表が澪を引いて、しかもいくつかの偶然が重なって、いつのまに、それなら昔、わたし自身も能の「松風」を変容させたテクストを書いたと思い出したわけ。誰も読まない『思考の天球』(水声社)のなかに収められたその詩的テクスト「幻想松風」をひさしぶりに読み返したら、これをこのまま読みあげてみたいという欲望が芽生えたわけです。前週にわたしが指摘した「エロス」の問題系が表面化されてもいるし...と。で、先週の授業の最後に、20分ほど時間をかけて朗読させてもらった。終って、心優しい受講生たちは拍手してくれましたけどね。

 で、これに味をしめたか、土曜の朝日カルチャーセンターの講義でも、似たようなことがやりたくなって、テーマはベラスケスの「ラス・メニーナス」だったのですが、美術史家のダニエル・アラスのテクスト(会話体でぴったり)に、もちろんミシェル・フーコーのテクスト、さらに90年代はじめにわたしが書いたテクスト(『表象の光学』未來社)の3つを「ポリフォニー」として演じる試みを実験してみました。これは、テクストが入り組んでいて、わたし自身もうまくコントロールできず、途中で、講義風の解説も入れなくてはならず、失敗かな? 拍手は来ませんでしたね。多くの受講生はとまどっていたかもしれません。ごめんなさい。

 でも、ついでに、自分が40代で書いたテクストをいろいろ読み返したりしてみると、こちらはすっかり忘れているのですが、自分なりにはおもしろいですね。なるほどねえ、と感心するところもある。いや、ここまで考えていたのに、この「先」を自分はちゃんと展開しなかったのではないか、という淡い悔いも感じます。自分の思考のベクトルは、この時代から少しも変わっていないなあ、と。
 逆に言えば、20数年前といまとで、なにも進化していないとも言えるかもしれません。この四半世紀、わたしはなにをやっていたのか。青梅雨の空の青さに吸い込まれるように、わたしはぼんやり自問します。でも、否定的な感覚ではなく、肯定的な感覚です。もう少しは行ってみなければならないのではないかな、と。


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