★ 日日行行 (126)
*「先生が書くこと、知のパフォーマンスを行うことは、それ自体が、〈祈り〉なのだと確信しています」ーー最近いただいたある方からのメールにこう書かれていました。
わたしがやろうとしていることが、じつは、アカデミズムのなかの「研究」などというものではなく、「祈りの行為」である、と見てくれている人がいる、というのは、ありがたいですね。そういうことをはっきり言われたことはないので。小さな不思議な衝撃が年の終りに走りました。
で、その方は、わたしが昔、書いた「祈りのコロナ」を引用して、(私と他者との)「世界内的ではない、がしかし完全にこの世界の外にあるわけではないような分有の地平」が光輝いている、その「光による、外との根づきに確かさを与えてくれる行為者」が小林康夫なのだと思うと言ってくれている。「光のコロナ」は、もう十五年前くらいになるか、わたしとしては、自分の進む方向をいまこそ明確にするために、と思って、必死の覚悟で書いた長い論文ですが、いかなる反応もなかったこともあるし、その頃から全身全霊UTCPの活動に突入してしまったこともあり、続編を書こうと思いながら、書けないままで終ってしまった論考。それ以前からの宿題であった『絵画の冒険』をようやく昨年上梓した以上、いまこそ、その仕事を再開しなければならないと思っているものなのです。世界のなかでただひとりでも、それを待っていてくれる人がいるなら、それだけでもう一度、覚悟をあらたにしなければなりませんね。
その方は、それに続けて、「だから、どうか、これからも、祈りの行為をわれわれに見せてください!」と書いてくれています。Oui, ともちろん、お応えするのですが、でも同時に、どんな機会だったか忘れてしまったが、今年、一度、わたしは祈りということがなになのか、まるでわかっていないのではないか、と思った瞬間があったことを思い出しました。「祈り」は、もはやいかなる「難しい」もないところで起ることでありながら、それゆえに、難しい。困難な祈り、だからこそ、なのですが、もちろん。
こう書くと、今年9月に行った南インドのマリシュワラ山のなかのモンスーンの雨を思い出します。その雨のなかでわたし(たち)が行為した「火と水との不可能な婚姻」のパフォーマンス。あの「困難な祈り」。一個の石榴。と、ここは謎を置いておくだけにしましょう。
そう、『祈り」とは境界線上にとどまることです。波打ち際に佇立して、片足は波にさらわれ、片足は砂にくずされ、危うい均衡を保持すること。その「持」を行うこと、行くこと。行持。サンスカーラ samskara。(なお、拙論「祈りのコロナ」は、『「光」の解読」(宗教への問い2)、坂口ふみ・小林康夫・西谷修・中沢新一編集、岩波書店、2000年の巻頭論文です。あれからすでに17年。わたしはいったいなにをやっているのか。あれから一歩も前に進んでいないのではないか。だが、自嘲が何になる。砂浜の微妙な勾配をたしかめつつ、よろめくように前へ。)