破急風光帖

 

★   日日行行 (118)

2017.11.08

* 「水のパロールは〈演〉であり、水の眼差しは〈演〉である。この野生の身振りは、そのあらゆる意味におけるテクネー以前の、すなわち〈技〉以前の演技であり、しかし〈技〉によってしか〈演技〉として実現され得ない戯れjeuなのである。そして、それはまた、あらゆる演技ーー形あるものの相互の戯れ、形あるものと形なきものとの婚姻、見えるものと見えないものとの交錯ーーを裏打ちしている限りでは、それらの変わることなき舞台であるだろう。こうして、水は、絶えず世界を、そしてわれわれを演じており、それ故に、水を聴き、水を見ようとしさえすれば、われわれはそこに世界そのものを、また、われわれ自身を見出すこともできるのである」

 と書いているのは、わたしですが、しかし26歳、つまり50年以上前のわたし!です。悪くはない、いや、この26歳の言葉にいまのわたしがどんな言葉を返せるか、ただ「まいりました」かもしれませんね。月曜のトマス・カスリスさんの講演会が日本の文化における「水=生命」の思想というテーマであったので、そうそう、わたしの出発点も「水」であったよなあ、と思い出し、『無の透視法』におさめられたこの詩的エッセイ読み直してみたら、おもしろいところもある。特に、『春秋元命◯(草冠に包です)』の「水の言は演なり」一文を梃子にして、デリダ的ディフェランスへと持っていくアクロバット的転回(展開)、まあ、ヤスオ的技法はすでにこの時期に確立していた。20代というのは、われながら、おそろしい。すべてがある。すべてを含んだ「種子」がある、といささか感傷にかられたか、トムの講演のあとで、数名の希望者にコピーを配ってしまいました。
 半世紀前にこういう視点を確立してしまっているわたしにとっては、トムの講演は、道元、親鸞、日蓮とつないで「水」の系譜を提示しているのは当然として、もう少し広げてほしいと、「水」のヴァリエーションとしての「鏡」や「川」、「雨」、「露」もあるね、そしてきわめつけの「花」という「水の変身」に目を配ってほしいとコメントしましたけど、どうでしょうね?わたしは、海外からのゲストには、つねに「相手の土俵」のうえで、真剣勝負をすることを心がけています。それが最高の「おもてなし」だからです。◯◯について先生、どう思います?というのは、自分は土俵にあがらないで、はやしているだけの観客。そんなものはなににもならない、なぜなら本人がまったく傷つかないので。そんなやりとりばかりいくらやっても、人は成長しませんね。自分が危うくないところでは、ほんとうの対話など成立しない。もう少しトムとこの展開について議論したかったのですが、こちらも諸事切迫していて余裕がありませんでした。少し残念。
 余白にですが、9月のインドの「土砂崩れ」のことを思いながら、つまり「水」の途方もない暴力のことを思いながら、トムの講演に耳を傾けておりました。


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