破急風光帖

 

★  日日行行 (108)

2017.09.05

* このところ半年に一回、本郷のEMPの講座の総括討論で、生産研の数学者の合原先生や、医学部の脳神経科学の尾藤先生などと討論する機会をいただいていて、先日もその討論があったのですが、当然、話題の中心のひとつは、いま、もっとも先端的なプロブレマティックである、いわゆるシンギュラリティ(技術的特異点)の問題。これに対して、文系ないし哲学系を代表としてどう応答するか、ということがわたしに問われるわけです。

 となると、それを言い出したレイ・カーツワイルの本を読んだりして勉強しなければならないのですが、シンギュラリティが現実に起こるかどうか、という問題はさておき、人類が未曾有の転換点にさしかかっていることは確かではないか、と思いますね。きわめて大きなくくりで言えば、無文字社会から文字社会へ、そして人類はいま、文字社会から超情報社会へと根本的な転換を行おうとしている。まさに技術こそが、人間の存在のあり方を革命的に変えてしまうので、そこでは、たとえばいままでわれわれが自明の前提としている(定義がなんであれ)「こころ」なるものが「超えられる」事態が想定されないわけではない。とすれば、この文字ベースの「こころ」のレベルを問題にし続けてきた人間科学はいったいそれと、どう向かい合うのか、そんなことを考えないわけにはいきません。
 でも、こtういう問題につきあうには、どうしても「ことば」(つまり「意味」)ベースではなく、「数」ベースの世界観(数物的と言いましょうか)を多少は勉強しないわけにはいかない。まあ、大学に入ったときは物理志望だったので、数理アレルギーは強くはないのですが、それにしてももはやアミロイド斑に覆われたわが老脳では、計算式を読みとくことはできません。けっしてモノにならないことを、それでも多少齧ってみる、そんなことをしていると「意味」オリエンテーションが強いわたしの思考はいろいろな妄想に突っ込むことになって、合原先生や尾藤先生に、失礼にもメールで質問を送ったりする。すると、先生方はお優しくて、ヨーロッパの学会に向かう飛行機のなかから返答を送ってくださったりする。嬉しいですね。妄想を受けとめてくれるのです。わたしの手にはあまるのですが、こういう理系と文系の対話がいまこそほんとうに必要なのですけどね。
 そんなカオス的思考を一方では迷走させながら、他方では、ずっと連載している「未来」誌のために、70年代文化論を書いたり、足利市美術館の吉増剛造さんの展覧会のために短いエッセイを書いたりしています。まさにカオス深まる秋のはじまりです。
 来週は、東大のIHSのプログラムで、(たぶんこれが最後ということになるでしょうが)学生たちと南インドの研修に行くことになっています。短い滞在ですが、さて、どうなるのか。ほとんど外国人が入ったことのない山中の劇場に行って演劇のワークショップを行うのですが。サソリやコブラなどもいるかも、とか言われているので、なかなかスリリングですね。
 ともかく、指数関数と70年代「道化]文化論とインド(それに佛教哲学も加えてもいい)とが入り乱れる、ほんとうにカオス的なわが脳。こんな脳でも2045年には「アップロード」できたりするんですかねえ?わたし、とっても懐疑的、もちろん。


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