★ 日日行行 (104)
* 今学期、青学でも駒場でもそうだが、授業で受講生が発表すると、そのテーマがしばらく頭に残って動きはじめる。
場合によっては、翌日以降、自分で関係書を買って読みながら考えるということもある。多くの場合は、そのような資料調査をするのではなく、自分なりのアプローチを考えるのだが。今日、駒場の授業の冒頭に、10分ほど時間を割いて、前週の発表の主題だった龍樹「中論」について、この週末にわたしが考えたことを述べさせてもらった。じつは土曜1日かけて、A4で10頁くらい、(3時間で考えた)龍樹「中論」へのアプローチなるものを書いていた。それをもとに喋った。宇井、中村、三枝など錚々たる仏教学者の「翻訳」の方向に少し違和感を感じて、それを試してみようと思ったわけなのだが、とても歯が立たないという思いはあるものの、それでも、自分なりに進んでいく方向みたいなものが見えたのは嬉しいかな。
専門的な知識ということを超えて、いや、そのはるか手前で、しかし独自に反応するわたし自身の思考というものがあって、それが立ち上がるのがおもしろい。論理的に追っていくのではなく、ほとんど直観的に、なにか火花が散るということが起るわけで、この歳になって、かえってそういう機会が増えているような気がする。
しかし、高野山から草間弥生、ラカン、クレオール、山口小夜子、イギリスロマン主義、合唱曲、ディスコース分析、中論、タルコフスキー・・・とかなり多種多様。でも、それこそ、わたしが思う人間科学というものなのだけどね。
(明後日は京都でキュレーションをめぐるシンポジウムに参加するので。この週末は、ラカンの「アンコール」を読み返している余裕はないと思いますが・・・・
なお、土曜発売の日本経済新聞に『ストーカーの時代』(ブラン・ニコル著)の書評を書きました。)