破急風光帖

 

★   日日行行 (101)

2017.07.01

* 「事ここに至って、突然、わたし自身も知らなかったわたしの行為の密かな格律こそ、じつは〈知において、道化として〉ではなかったかと思い至り、再度、愕然と、しかしどこか納得するのだ」

 これは、今週刊行された「未来」掲載のわたしの連載原稿の一部。1970年代以降の文化論なのだが、その中核となる形象として、山口昌男の「道化」論を呼び出した文脈。「道化」という形象こそ、70年代以降の文化の「主役」ではないか、と論じているのだが、それこそ、またわたし自身の姿でもあるのかしれない、と思い至ったわけ。山口昌男は、司祭型と道化型の二つの知識人のタイプを区別する論を引用しつつ、「道化」こそこの時代の知識人の使命と宣言しているのだが、知らず、わたし自身まさにその時代の申し子ではあったと納得するという次第。

 昨日は、本郷のEMPの講義で、わたし自身の『君自身の哲学へ』を、はじめてわりと第三者的に論じたのだが、そこでこの本自体が、ブリコラージュとしてのフィロ=ソフィアの試みであったと、あらためて自覚した。「読む」ことにおいてディコンストラクション、「つくる」ことにおいてブリコラージュ、「生きる」ことにおいてダンス、まあ、そのように「あっちにふらふら、こっちにふらふら」彷徨ってきたということだろう。わが道化的道行きである。
 だが、昨日の講義では、受講生が半月前にプラトン学者の納冨さんの講義を受けていることに反応し、思わず、プラトンの「ポリテイア」もまたある意味ではブリコラージュ的フィロ=ソフィアなのだ、と大胆不敵なことを口走ってしまった。プラトンとわたし、やってることのスタイルはそんなにちがってませんよ!と。ただ、わたしは、「イデア」へ向き直るのではなく、「感覚」を見つめ直そうとしているのですけれどね、と。まあ、このあたりが「道化」の面目躍如だったかも。
 その後、夜のEMPのサロンにも出させていただいて、チェリストの堤剛さんのお話しをうかがい、なんと3メートルの至近距離で、バッハ無伴奏1番、カザルスの「鳥の歌」を聴くという好運。素晴らしい演奏に、涙が滲みました。「道化」だって泣きます。
 今日は、NHKの「クール・ジャパン」の収録。テーマは「釣り」だそうです。わたしはまったく釣りをしない人なのですけれど・・・そして明日は表象文化論学会。
 そう、動きすぎるのがまさに「道化」ですね(?)動きすぎるのではなく、リズムなんですけど、ほんとうは。


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