破急風光帖

 

★  日日行行 (77)

2017.03.15

* 「老いることは禁じられている」il est interdit d'être vieuxーーラビのNahman de Braslavの言葉ということになっているが、それも知らず、わたし自身のマキシムでもあった。年取ることは仕方ないにしても、老いていることはゆるされない。

 前回のブログで、aphoneという語を書いた。めずらしい語なのに、そうしたらまたしてもこの語に出会った。しかも、それは「カフカが結核性の咽頭炎にかかって言葉を失ったとき」という表現として。そのときカフカは短い言葉を紙片に書き付けたのだが、そしてそれは、「あたかもかれ自身が〈花〉へと変身してしまったかのように」オダマキや、山査子、白いリラなどについて語っているのだが(なかには「永遠の春はどこにある?」というのもあって、泣ける)、それに続いて、「それだからこそひとは蜻蛉を愛するのだ」という文章もある。じつはこれがその本のタイトルにもなっている。パリにいる現存のラビ(わたしより7歳くらい若いかな)Marc-Alain Ouakninの本「C'est pour cela qu'on aime les libellules」(1998)。驚くべき「秘密」に満ちた本なのだが、またしても、何気なく書棚から抜いた本のたまたま開いた頁にaphoneという語が出ていて、それとともに、わたしはわたし自身の(?)マキシムが書かれているのを読んだ。すでに読んでいるのに、また出会ったのだが。すると、委細は省くが、これがまた、前にこのブログで思い出した1990年の『現代詩手帖』のフランス現代詩の特集でわたしが抄訳を掲げたルイ=ルネ・デ・フォレの「サミュエル・ウッドの詩」にも密かにつながっていくのだ。
 つまり「老いることは禁じられている」という言葉は、デ・フォレの詩に対してブランショがつけたコメントに対するある種の応答としてOuakninが持ち出した言葉なのだ。
 いや、このあたりのことをちゃんと語るには、一本の論が必要なのだが、今日、これも偶然、研究室でOuakninが書いた『Bar-Mitsva』という本を手にとって開いた頁に目を落したら、同じ言葉が引用されて注釈されていたので、ここまで「呼びかけ」が続くなら・・・とここにちょっと書きとめておこうと思った次第。わたしの友人のVincent(かれが、わたしが選んだ日本の和歌にIrèneのカリグラフィーあわせたアーティスト・ブック『Kaze』をつくってくれたのだった)は、Ouakninの講義にも熱心に通っているので、わたしもいつかいっしょに行きたいと思っているのだが、まだ実現していない。
 (そうそう、前回のわたしのブログに触発されて、Serge WilfartのLe chant de L'Être を取り寄せて読んでくれている若い人がいる。嬉しいですねえ。そのように受けとめてくれるひとがいる、それはわたしに「希望」を与えてくれますね。誰かになにかが届けられることがあるということ。Merci, H!)。
 こういう「偶然(なんてものはないのですが)」がもたらす断片的な、あまりに断片的なLecture-Vie を通して、わたし自身がなにを感じるか、ということを最後に謎のように残しておくことにするなら、それは、「火」の不在、欠如。風、oui、水、oui、でも、火がーー昔からだがーーわたしには、まだよくわからない。火としての言葉、パロール。あるいは、「灰」としてのそれ。feu- Oui. 声と火。きっと。


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