☆ 冬のfragment (3)
* 「運命の力に押し流されていくのが大部分の人間であるとすると、その中から、自分だけの生き方の持つフォルムの美しさというようなものを、死ぬまでの間に何らかの形で描き出していきたい。それは自分に加わるさまざまな力に対する反抗だと思うんですね」(辻邦生)
1998年12月18日、東京デザインセンター(五反田)で行われた「ロレアル賞連続ワークショップ」2年目の第5回の会でした。「色・・・人生の風景を語る」と題して、辻邦生先生に来ていただいた。わたしがお相手をつとめました。翌年の7月29日に先生は亡くなられた。多くの人の前に出てお話しをされたほとんど最後の機会だったのではないか、と思います。
この「冬のfragment」、なぜかわからないが、1999年の自分のテクスト断片を読み返したりしてしまったので、今朝も書棚からたまたま抜き出した辻さんの『薔薇の沈黙 リルケ論の試み』を読み返しはじめたら、このロレアル・ワークショップのことが思い出されて、その記録を見たら、ああ、ほとんど1999年だ、とここに引いておきたかっただけ。先生このとき74歳。わたしも少しそこに近づいてきて、あらためて先生の言葉が心に染みます。
同様に、この『薔薇の沈黙』を読むと、たとえば最初の章に引用されている「芸術家であるとは、計算したり、数えたりすることではありません。樹木のように成熟すること reifen wie der Baum です」というリルケの言葉にやはり立ち止まってしまう。言葉の清らかさというかな、それに打たれますね。リルケはそこでは、「夏は来るのです。忍耐強い者のところに来るのです」と言っているのですが、こちらは成熟しないままで「夏」はすぎ、はや、「秋」。ここで成熟しないでどうする、というところですが、そのためにも、辻先生が、この引用に触れて書いているように、ーー「〈忍耐し待つ〉とは、樹木のそれのように、見えないところで、果てしなく働くことであった。それは瞬時も休むことなく仕事をすることだった」ーー「見えないところで瞬時も休むことなく」仕事をしなければなりません。この場合の「仕事」はもちろん、生活費を稼ぐための労働ではない。すぐその後で辻先生が言っているように、あくまでも(魂の)「変容」のための準備の「仕事」です。
一本の樹木のように・・・「変容」に向って、少しだけでも、のびようと願うこと。遠い夕焼けの空をながめながら、あらためて自分にそう言い聞かせたりして。