★ 日日行行 (67)
* 前回記したように、この週末は、ひさしぶりのアートの週末、少し解放されてアートに没入。しかし、そこもなんという激しさ。うたれました。
最初は、9日(金)の、わたしの最終講義後のダンスを助けてくださった工藤丈輝さんのソロ・ダンス『恐怖の恋』。新宿のSPACE雑遊でしたが、これが素晴らしかった。ソロとは言ったが、むしろ音楽の石坂亥士さんとのデュオというのが正確でしょう。ヒトとヒトガタとのあいだの狂気の恋、それが人間が生まれてくるドラマと重なり、その人間が猥雑な「神」となり、そしてまた人間の本源的な孤独へとつきかえされる。肉体の激しいドラマ。工藤さんという人の魂の叫びを聞き届けたような気がしました。Bravo!
翌10日(土)は、今度は、サントリーホールで、イーヴォ・ボゴレリッチのピアノ・リサイタル。わたしがこの人を聴くのは2度目ですが、今回は、ショパン、シューマン、モーツァルト、ラフマニノフ(アンコールにシベリウス)。しかし、これがわれわれが知っているショパンではなく、モーツァルトではなく、こう言ってよければ、むしろそれらのディコンストラクション。音が、かれ独特のテンポ(それは時!)のなかで、まるで沈黙の夜空の星座のように輝く。そして次には雪崩れる銀河のように襲ってくるマッスとしての音。これも、極限的な人間の孤独。もはやメランコリーとか悲しみとかいう人間的情念すら突き抜けていました。21世紀の音がここにある、と思いましたね。19世紀のショパンではなく、21世紀のショパン。その新しいロマン主義、超人間的とも言うべきロマン主義かな。非崇高としての崇高、われわれの時代の「時間」。
で、翌朝、早朝、今度は、「のぞみ」に乗って京都へ。京都造形芸術大学の春秋座で、渡邊守章先生演出のクローデル「繻子の靴」。なんと11時開演で終演が20時30分。1日がかりの大芝居です。しかし、飽きませんでしたね。高谷史郎さんの素晴らしい映像美術にどきどきしながら、クローデルの核心とも言うべき、地上の恋と天上の神との激しい、はげしい相克のドラマに魅せられました。でも、先生、83歳!これを演出する力とは、まったくおそろしい、鬼神です。舞台を観ながら。わたし、学生時代にクローデル全集(もちろん原語)を図書館から借り出して、この戯曲を読もうとして読めなかったことを思い出していました。その本がまざまざと脳裏に浮かぶ。そのとき読めなかった本が、いま、ようやく読めた、少しわかったと。頁が開いた。先生はこの戯曲を上演するのに60年を待った。このすさまじいパッション!
でも、学問も芸術も、本来、そういうものなのですよね。そのような「火」なのです。それに焼き殺されることなのです。(まあ、わたし自身は、「火」がわからず、傍らをただ「風」のように過ぎていくだけなんですけどね)。でも、そんなわたしというヒトガタに、燃える「火」が吹き込まれたこの3日間でした。もちろん、疲れたけど、でもいまだに、プルエーズの言葉の数々が頭のなかに鳴り響きます。「わたしは残ります」、そう、激しく、残ります、ここに。(帰りの新幹線のなかで、先生の翻訳『繻子の靴』(岩波文庫、2巻本)につけられた行き届いた、深く長大な解説を再読していましたが、舞台を観てはじめてわかることがいくつもありました。先生の1年分の授業をきいたような気がしましたね)。