☆ 冬のfragment (2)
* 「correspondance(交信)ーーこの言葉のなかには、身体corpsも、ダンスdanseも、そして橋pontも響いている。それは燃える身体であり、燃える橋であり狂気のダンスである。手紙はその炎の交流の無限の円環のなかにわたしを巻き込むのだ。手紙、橋よ、その出来事が届く。その封じられた燃える身体が届く。言っておこう、手紙lettres(=文学)だけが、わたしにとっての、愛の唯一の明証にほかならないのだ」。
前回、1999年の自分が書いたテクストの破片を掲げたが、今度も同じ、1999年の短いテクストの末尾。「現代詩手帖」6月号の「手紙」特集のために書いた文章。これは自宅の書棚からまたしても、たまたま引き出した1冊のなかにあったもの。そう、これを書いたときには、自分がほんとうに「ダンス」をするなどとは想像もしていなかったにちがいない。でも、今年、自分が行った運動を振り返れば、思い出すのは、バリ島ゴア・ガジャの洞窟の前で朝の光のなかひとりで踊っていたダンス、駒場の山田せつ子先生の授業の最終日に、マーラーの交響曲第5番アダージョでウィトゲンシュタインの「論理哲学論稿」を踊ったダンス、さらに青山学院のホールで、バッハ/グノーの曲にあわせてマリアに受胎告知する天使ガブリエルを踊ったダンスの三つのダンスが湧き上がるように思い出される。もちろん、「冷や水」の類いなのではあるが、しかしそれはなにかの「correspondance」であり、「橋(pont)」の実践ではあったのではないか、とふと思ったりもする。
前回のテクストもそうだが、この「手紙」のテクストも、たしかわたしのどの本にも収録されてはいないはず。そういう細かなテクストをずいぶん書いてきたようにも思う。「屑の光」ーー『こころのアポリア』(羽鳥書店)を刊行するときに、はじめに考えていたタイトルがじつはこれだったのだが、「屑」にも「光」はさす。いや、「屑」にこそ「光」あり。「屑」として散っているわたしの生になんとなく思いを馳せるのは、年の瀬のせいかな。
(いろいろな意味で激しい1年であったなあ、と思います。その全体がヘタクソな「ダンス」ではあった。屑のダンス。来年もまた、きっとオフ・バランスによろめきながら、その不細工を、そのブリコラージュを、Per-formeするしかないでしょうね。みなさま、ありがとうございました。Merci. よいお年を。雲があがって、青空に遠く真っ白な富士山が見えてきました。
2017年が人類にとって、それでも「よい年」となりますよう!たぶん、決定的な転回の時の「序」にはなると予感します。)