破急風光帖

 

★ 日日行行 (65)

2016.11.23

* 昨日は、駒場で、わたしの本『表象文化論講義 絵画の冒険』をめぐる合評会でした。表象文化論の3年生2名、修士課程1年生2名の4名が、わたしの本に対して「挑む」というか、応答するというか。UTCPと表象文化論教室の共催で多くの方に来ていただきました。

 一言で言えば、幸せでしたね。自分の本が、若い人にちゃんと読まれているという感覚。鋭い「読み」の実践、問題提起。そして最後に、サプライズでしたが、田中純先生のあたたかく、するどいクリティ−ク。とても表象文化論な晩でした。つくづくこういう場のなかで、大学教師という職をやってこられて幸福だなあ、と。オーガナイズしてくださった桑田光平先生はじめ、みなさん、ありがとうございました。
 田中純さんが指摘してくれたように、「冒険」という言葉はわたしにとってのもっとも核心的な言葉です。実際、そこでは言わなかったと思いますが、ボードレールを扱ったわたしの修士論文は、「存在の冒険」というタイトルでした。存在は冒険であり、冒険でなければならないというのが、わたしの「哲学」(カッコをつけます)でありました。あとの懇親会の席で若い学生たちに言いましたが、大学入学後、すぐに入ったクラブが、学術調査探検部でしたからねえ。「激しさ」というキーワードもそれと別なものではありません。でも、わたし自身にとって、まだまだ、「冒険」は不十分、中途半端、情けないほどだらしがない。発表者のひとりは、フリードリッヒのあの雲が渦巻くあの山頂に立つ後ろ姿の男は、小林康夫だ、と言ってくれたのですが、いやいや、そんな勇気はわたしにはない。だからこそ、生命がけで崖っぷちに突きたっていたアーティストたちに、わたしは無限の憧れと尊敬を抱くのです。
 でも、そうも言っていられない。もう少し「冒険」へと身を挺することがあってもいいのかもしれない。わたしのエベレストはどこにあるのか。わたしはどこで「歴史」と出会って、「爆発」するのか、いよいよ真剣に問うべき時が近づいているのかもしれませんね。
 小さな、小さな島ではあるが、それでもアーキペラゴの一部。いや、アーキペラゴ全体がそこにくりこまれていないわけではない。「火」と燃えるとはそのようなこと。その「激しさ」をこそ。


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