破急風光帖

 

☆ 秋のbillet (3)

2016.10.27

* 「物質の根元には暗い1本の植物が生育し、物質の夜には暗い花々が咲いている。花はすでにビロードと香りの方式を所有している」(ガストン・バシュラール『水と夢』)

 授業の展開のなかで、はからずもバシュラールにちょっと触れることになって、(自分の本はどこに行ってしまったのか?)、図書館から訳書を借り出してぱらぱらと頁を繰ってみたのだが、この『水の夢』こそ、わたしの「思考」のいくつかある出発点のひとつではあった、と思い出した。たしか1976年に『エピステーメ』誌に「水の思考」というエッセイ(『無の透視法』所収)を書いていて、つまり26歳のわたしのエクリチュールというわけだが、読み返してみても、もちろん生硬ではあるし、行き届かないところはあるのだが、あのときの言葉がいまでもわたしの精神のなかには流れているという感覚があって、それがほんとうは伏流のように、その後のわたしのエクリチュールの下のほうに、ずっと流れ続けていたのが、だいぶ地層が薄くなってきたのか、40年も経って地表に湧出したようでもある。小さな湧き水というわけだ。
 昨日、『水と夢』の序文を読み返していて、Ⅲの末尾の「水の苦痛には限りがない」の一文に釘付けされたのはどうしてだったか。この言葉、26歳のわたしをも釘付けしたという感覚があった。「小さなマドレーヌ菓子」とは言わないが、そう、「風」と「水」ーーこの二つのあいだで、わたしの貧しい想像力は揺れ動いていたのだ、と。ということは、まあ、「火」がいまだ、わからないということでもある(「大地」はすべての前提なので)。その課題を自覚したのは、40代の頃だったか。以来、「風」と「水」という動くものに身をまかせつつ、「火」を、「日」あるいは「光」を、いずれにしても「ひ」を、もとめ続けているのではなかろうか。Hi それが Vie であるというようにね。(しかし、それにしても、わたしは、人知れず、無自覚に、poèteではあったのだったか、驚きですね)。
 


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