☆ 夏のnota bene 8
*「人間の心の明かされることの少なく、もっとも照らされうる地点に集中しなければならない詩、自由、そして愛」(『秘法17番』)
アンドレ・ブルトンだが、いつも持ち歩いている原書を研究室に置き忘れたようで、ここでは、学生時代から愛読している宮川淳さんの訳で掲げた。テクストの最後の文章の一部。たぶん、この部分が意識の底に残っていたのか、最近、わたし自身は、この「季節」の「銘」として「poiesis, philosophia, prex」と言ったりもしたけれど。いずれにしても、永遠の夜の深淵へと墜ちていく堕天使ルシファーの羽のひとつla plumeが「自由」という「星」となるというユゴーの詩が踏まえられている。「秘法17番」は大アルカナ17「星」というわけで、その図像は、まさに「波打ち際」で水と大地とにそれぞれ壺から水を注ぎ続ける女性であった。前回のnota beneに重ねれば、これこそソフィアとしてのシビラにちがいない。
この数日、ルネ・シャールや、ボンヌフォアなどつまみ食い的にいろいろ読みかえしたけど、そのうちに、われわれの日本語(langue というよりlangageとしての、という感じなのだが)には、なにかが決定的に欠けているのではないか、という感覚につきまとわれて苦しい。このコトバのもとでは、なんだか、すべてがすぐに「妥協的」になる。Intransigeance(非妥協性)の欠如。それは、最終的には、生きる思想の欠如を意味する。ルネ・シャールの詩を読んでいて、どうしてもわからないのが、そこではないかなあ、と考えたりもした。(ルネ・シャールの詩には、ぼくのフランス語の力では、ついに届かないという思いを、20年前からずっともってますね。駒場の素敵な女子学生たちを車に乗せて、la Sorgueを見に行ったりもしたのにね。)だから、一度もかれについて書いたことはない。いずれにしても、詩も自由も愛も、まだなにもわかっていないのではないか、とおののく心がある。17番もわからずに、どうして21番「世界」に到達できるだろう。いつまでも0番「愚者」のダンスを踊り続けるだけかな。でも、それもまた、密かな願いではあるのだが(今年の1月だったか、山田せつ子先生から、わたしのは「愚者のダンス」と言われて、とても嬉しかった。そのように生きるしかない)。
部屋の壁に、パリに住むブラジル人の姉さんからもらったアマゾンの密林の鳥の羽がひとつ飾ってある。この羽を、「自由」の徴と見立てよう。夜の縁に落ちて、光を放つ羽。その軸先をインク壺にひたすべきなのかもしれない。