破急風光帖

 

☆ 夏のnota bene 10

2016.08.21

*「わたしは眼を閉じた、真の夜、ひとをおびやかすその仮面をとり払われた夜、調整者であり慰め手である至高の夜、『夜の讃歌』の偉大な無垢の夜のいま一度の成就を祈って」(『秘法17番』)

 そうだ、確かに『秘法17番』こそが、わたしが求めるような「夜」への真正な案内書というべきだ。そのことにようやく思い至るとは。わたしが勝手にブルトン4部作(『ナジャ』、『通底器』、『狂気の愛』、そして『秘法17番』)と呼んでいるサイクルの最後の書。これこそ、いまのわたしにとっての「親鍵」のようなものかもしれない。時代は、第二次世界大戦の終り(パリ解放の直後)であった。そして、いま、われわれは、なにかそれに匹敵するかもしれないような災厄の「前夜」にいるという感覚。決定的に違い、決定的に同じ。だが、きっと、この夜、「まったき魔法の夜」の扉ないし窓が開くためには、それがブルトンの運命であり、使命でもあるのだが、ひとりの女性が出現することが必要であった。メリュジーヌ、そのような蛇の、龍の尾をもつ、「こどもである女」!
 だが、同時に、「運命がお前をわたしに出会わせたとき」、そう、この夜の「窓が開かれたのはわたしの中でなのだということができる」とブルトンははっきり言っている。
 そうだよね、誰かが開けるのだよね、扉を。その「誰か」が、どのような存在であるのかは、予断はゆるされない。「女」ではあるが、人間の女であるとはかぎらない。一羽の鳥、妖精、ひとりのシビラ、一頭の鹿、一本の樹木、一個の影、天使、きらめく青い光.....
 「夜よ! おまえは・・・」と二人称で呼びかけて、...そこで頓挫する。このコトバでは、呼びかけを完遂することができないように感じられる。そのための「靭さ」が決定的に欠けている。それとも、それは、ただわたしの脆弱さにすぎないのだろうか。


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