☆ 夏のnota bene 7-bis
2016.08.12
* 「それこそ、まさしく、予感の歌、約束の歌、そして目覚めの歌なのだ」(ブランショ)
このnota beneの冒頭にわたしは「予感」ということを書いた。すると、ブランショの「ラスコーの獣」のなかに、ルネ・シャールの詩を語って、正確に、この言葉が発せられるのが確認される。予言ではなく、つまり未來の出来事の開示ではなく、来るべき地平の到来をこの予感が開く空間のなかに保持すること。そのような詩、というわけである。来るべきものを「語る」のではなく、「指示」するものとしての言葉、それこそ、Sibylle(シビラ、女予言者)の「理性を欠いた知恵」la sagesse déraisonnable であった、とブランショはその前のところで言っている。はじまりとしてのコトバ。つねにハジマリつつあるコトバ。意味を伝えるのではなく、指し示すだけ。そして、誰もそれを理解しないのだけどね。A venir、いまやって来ようとしているもの、それは、ある意味では、つねにカタストロフィックなものであるにちがいない。カッサンドラの鳥の声。夜の鳥の声。(ぼくは、この人生でいったいなんにんのシビラに出会ったことだろうか?)