☆ 夏のnota bene 7
* 「われわれは通行人だ、通行することに、つまりトラブルを投げつけ、われわれの熱さをおしつけ、われわれの充溢を言うことに専心している通行人だ」(ルネ・シャール)
緊急を要した仕事が一息ついて、ほんの少し夏の風。そうなると、これもわが手が動くままに書棚から取り出したのが、いつ買ったのかもまったく覚えていないのだが、アンリ・ミショーの挿画がいっぱいはいったVadim Kozovoï の仏露対訳の詩集「Hors de la colline」(丘の外へ)。気がついていなかったのだが、巻末にブランショのエッセイ「空に昇ることば あるいは われわれはまだ詩に値するのか?」が収められている。コヴォゾイの詩はよくわからず、なかなか入っていけないのだが、ブランショの言葉には、一筋の光があった。そこに引用されていたのが、冒頭のシャールの詩句だったのだ。
で、今度は、外に出るときに、鞄に入れて電車のなかで読んでいたのが、ルネ・シャールの詩を巻頭に掲げたブランショの「ラスコーの獣」。これもまた詩についての論。1958年のものだけどね。9月にラスコーⅡに行くことになっているので、その準備(?)ということもあるが、あらためてブランショーシャールの線に貫かれた1日ではあった。
シャールの詩の最後は、「こうしてわたしの眼にラスコーの壁に現れたのは、幻影によって仮装された母、眼を涙でいっぱいにした〈知恵〉Sagesseなのであった」となっていて、ブランショの論もそれを引くことで終っているのだが、わたしとしては、そう、洞窟の奥の「夜」の底に、そのようにfantasmatiquement に仮装した〈ソフィア〉(こうなれば、これはグノーシス以外のなにものでもないですね)が、「名づけることが不能の獣」La Bête innommableとして出現することを、ーー真正の怖れなしにではなくーー願うということなのかもしれない。
洞窟は、そこを「通行する」ことが不可能になる場所であるのかもしれない。