破急風光帖

 

☆ 夏のnota bene 5

2016.08.06

* 「Vaste comme la nuit」(夜のように広大に)

 「夜」というテーマを考えるたびに、心に浮かんでくるのは、この言葉。もちろん、ボードレールのあの「コレスポンダンス」のなかの一詩句で、じつは、このすぐあとに、et comme la clarté (そして光のように)とあるのだから、「夜」だけではないのだが、わたしにとっては、(確かバシュラールかリシャールがこの詩句を取りあげていたこともあったはず)、「夜」はvasteなもの、広大なもの、というイメージは決定的だ。「夜」とは、わたしにとっては、ほとんど非知覚的な、しかしそれでも徹底して感覚的な広大さimmensité である。ボードレールは、そこでは、色とか香りとか触感などの共感覚的なコレスポンダンスをうたっていた。そう、感覚とは、知覚的ではなくて、本質的に、共感覚的にあるであろうような「シンボル」ーーボードレールはそこで「シンボルの森」と言っていたではないかーーーー、「何」のシンボルでもない、しかしシンボリックなもの、そう、一瞬のきらめき、閃光、またたき、のようなものであるにちがいない。
 (わたしの修士論文がボードレールについてであったことを、いまさらのように不思議なことのように思い出したりもする。そうそう、「A une passante」(通行人!の女に)にも、「閃光、そして夜!」とあったしね。ついでに言えば、その修論のタイトルは「存在の冒険」だった。「あとがき」にはあえて書かなかったけれど、『絵画の冒険』という本を、今年、刊行して、修論と同じタイトルが戻ってきたなあ、とは感じていた。そう、「夜」は「存在の冒険」の場所にちがいない。もうひとつついでに言えば、エリアーデが『迷宮の試煉」のなかで、「冒険」こそが人間の使命だということを言っている。しかも、冒険とは、なによりも「イニシエーション」のことだ、と。すばらしい断言。まったくその通りだと思う。)


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