☆ 夏のnota bene 13
* そして、どのようにしてか、夜が明ける・・・ということになるのだろうか。
Veiller という動詞は、そのままéveiller(目覚めさせる)という動詞につながっている。フランス語のこの「é- 」という接頭辞がぼくは好きだな。「分離」であり、「変化」であり、「達成」(E-vénement、そのまったき「来ること」)。Eveilとは、まさに夜が明けて目覚めること。この「覚」への前走こそがla veilleなのだ。
だが、きっと、東の空が滲んで、樹々の梢から青い光が落ちてくる(ランボーの「夏の夜明け」を思い出してしまうが)というようには、このéveil は起らない。きっと、それは、出来事ではないのだから。それは、avoir lieu(場所をもつ)のではなく、non-lieu(「免訴」という意味になるけど、ここでは非=場処ということ、同じだけどね)ということ。はっきりしていることは、それが、éveil de soi(moiかな?)であること。
わたしにとっての秘密の導師のひとりであるStephen Jourdainは、次のように咆哮していた。
「われわれのなかには垂直性がある、そしてそれは、倫理的なコンセプトを通してしか近づくことができないものだ。『存在せよ』soit!という命法と交錯するこの『目覚めてあれ!』éveille!という命法は、本質的にモラルなのである。なぜ目覚めていなければならないのか?より幸福になるためでも、苦しむのをやめるためでもない、自分や他人の庭に天国の花を咲かせるためではない。ちがう、いかなる意味においても、なにかのためではないのだ!」(『La bienheureuse solitude de l'âme』)
L'éveil est un acte gratuit.(覚は無償の行為である)L'éveil est, par essence, un acte non intéressé.(覚は、本質的に、利益関心を完全に離れた行為である)とかれは言う。
そう、だが、それは、はたして「行為」acteですらありえるのかどうか。むしろ、当然だが、non-acte非=行為としての行為。non doing としてのdoing, non thinking としてのthinking.なぜなら、veiller とはいっさいの行為を停止することだからだ。永遠のアポリア。鍵。(もちろん、アポリアこそが「鍵」のひとつの形式である、「公案」がそうであったようにね。)。