☆ 夏のNota bene 12
2016.08.23
* テラス(バルコニーではない)。存在のテラスに座って、あるいは立ちすくんで、そこから夜の暗さに目を見張っていなければならない。森の木々のあいだに潜む、美しい角をいただく一頭の鹿の双眸をのぞきこむために。
「目を見張る」と書いたが、フランス語のveillerという言葉。訳しにくい言葉だが、じつは、最高度に重要な言葉である。その名詞のla veille は、まさに「前夜」!であり、「徹夜」であり、「通夜」であり、「不寝番」、つまり夜に眠らずに、目をあけていること。La veilleuseといえば、(ルネ・シャールも詩を捧げていた)ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのあの悔悛するマグダラのマリアの絵において、ただ、夜に灯っていたあの1本の蝋燭、常夜灯のことだ。それこそがphare、燈台である。
パスカル・キニャールは、「海へと続く急な一五七段の石段」を降りていくのだった。それは、海に面した石のテラス。地中海の風が吹き渡る。その壮麗はこちらにはない。せいぜいまずしい木のステップが数段か。でも、どうでもいい。夜に張り出したテラスから夜を見張ることができればいい。なにもやって来ない。ただ闇。出来事はない。出来事という最後の限界が超えられる。行為でもなく、出来事もなく、ただ夜。それが「絶対的」ということかな。il faut absolument apprendre à veiller.