☆ 夏のnota bene 1
* 夜の扉をあけるのでなければならない
扉があるのかどうかはわからない。ノブはどこにも見えない。壁があるだけで、壁のどこに扉が埋め込まれているのかわからない。(手だな、わたしの手がタッチすると、忽然と、部屋は夜という広大さに変化する)。Transformation. Forrme を横切って超えて行くのでなければならない。「なければならない」ーーこれは、一般的なil faut ではなく、わたしにとってのパーソナルな、いや、わたしというパーソナルな存在の決意(なにを決意しているのかわからないのだが)、むしろ決意としての存在、運命の引き受けとすら言ってもいいのだが、そのようなil faut である。それはモラルの次元には属さない。(モラルを超えた〈倫理〉(ほとんど超倫理的な)とでも言おうか)。
では、これは、どこからやってきたのか?いや、それは、外から課せられたものではなく、(きみは甘いね)、むしろ予感というべきだろう。予感としてのil faut. そう、奇妙なことに、わたしが「哲学する」としたら、それは、「予感」によってなのだ。直観には至っていない。ただ、ひとつの予感に(よって)「方向づけ」destinerされているということ。
とすれば、夜、それは、ここではメタファーではなく(だって、それを知らないのだから)、ひとつの「仮」の「名」のよう。わたしは、予感にひとつの「名」を仮に与える。それが「夜」。Pré-nom、夜。だが、そうすると、もうそれだけで、乏しくはあるが、しかしイマージュが微かに兆す。少なくともimmensité 広大さの予感的感覚が立ちのぼる。その感覚を、わたしの(老いた)手が、ーーまるで盲人が手で世界を認識するようにーー手探りする。この盲目こそが「夜」なのかもしれないが、それを言うのは、まだ早すぎる。(ピカソの青の時代の絵画が脳のスクリーンにスクロールされる。わたしにとっての「青の時代」、ようやく)。