破急風光帖

 

☆ 夏のnota bene 3

2016.08.03

* 「おお、夜、おまえにおまえのextaseを賞味させよう。(...)おお、夜、わたしは、かれ自身lui-mêmeである」

(シンクロニシティは続く?)で、nota bene 2を投げ上げて、(これも当面の切迫した原稿から逃げるように、なのだが)、モーリス・ブランショの「Thomas l’obscur」(「謎の男トマ」と訳されているが、「無明のトマス」とでもしておこうかな)の1941年の初版の原書を読んでいた。これは、十年前くらいに、パリのサン・ジャック通りの古書店で買ったもの、すっかり陽に焼けて頁も変色しているのだが、まだナイフが入っていない。じつは、わたし自身もはじめて、書棚から取り出してペーパー・ナイフを入れてみたので、別に意図もなく、最後のところだけ読んでいたら、そこにトマスの語りがあって(XIV)、なんと「夜」の讃歌(?)が歌われていたという次第。
 おお、夜、おまえはこんなふうに、わたしを誘惑するのか!とかなんとか言ってみてもいいかな。打ち明けておくなら、今年の前半のわたしの読書で決定的であったのは、「トマスの福音書」だった。エジプトで1940年代に発見されたあのナマハグディ文書のなかに入っていた文書。この春、パリの書店でたまたまある本を買って、それ以来、この20世紀に届けられた「もうひとつの福音書」を読みふけった。
 そして、1年前(2015年1月)にIHSの企画でインドのケララをみなさんと訪れたときに、トマスが上陸した場所に教会があるという話をきいて、高橋英海さんらと、チャーターしていた大型バスで訪れたことがあったのを思い出していた。生まれてはじめてインドに行って、(一応、佛教徒と自己規定しているのに)なんということ、わたしはトマスを発見した。そのトマスが、1年も経って、パリまでわたしを追いかけてきた、という感覚だったか。そして、トマスが、イエスの復活を疑って、傷口に触れるまではそれを信じないと言ったという伝説(ある意味では、客観的な知を備えていたということなのだが)を踏まえて、フランス語では、Thomas l’obscurと呼ばれているということを知って、そうか、ブランショのこの小説の下にあったのはそれだったのかも、と(目から鱗)思い直して、昔買った初版原書をちょっと読んでみたかったということ。この春からずっとそう思っていて、夏にようやく本を手にとった次第。
 上の引用の、最後の、lui-mêmeは、とりあえずわざと「彼自身」としておきましたが、まあ、創造主ということでしょうか。そう、わたしにとっても、「夜の旅」とは、それがなにであるかは別にして、je suis lui-mêmeという最後の命題に到達することでなければならないことは、確かであるように思えます。
 
 
 


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