★ 日日行行 (26)
昨日のように冬に戻ったような寒さの日もあるが、確実に、春の気配。自宅の窓の道を隔てた向かいの民家のお庭に、あれは辛夷なのか、クリーム色の小さな蕾が咲き出てきたのに今朝気づきました。
しかし、なんだか忙しない。性分と言ってしまえばそれだけのことかもしれないが、一応、定年のしたはずなのにまったくのんびりできる時間がありません。この1週間は、友人宅での素敵な美しい茶会もありました(宮島達男さんからいただいた《Seven Times in red》というLEDの赤を北斗七星のように散らした作品を、なんと床に「軸」として飾ってもらったのでした)が、なんと言っても、わたしが第二オペラと呼んでいる日本戦後文化論の第2弾1970-1989をどう書き出すかに、結構、悩みました。結局、まだ「はじまる」前の「前奏曲」のパートしか書けませんでしたが、武満徹から書きはじめたので、昔、留学生時代に、パリで武満さんにご馳走になったこととか、その頃、武満論を書くことではじめて、自分なりの文体が確立した感覚をもてたことなどを、なつかしく思い出したりしました。
実際、その1981年頃の自分の文章、いまの文章とそんなに違わない。言っていることは、そっちのほうが論理的に明晰かもしれません。いやあ、人間というものは、30歳くらいから変わらないものだなあ、というか、わたしはいったいこの間、なにを学んだのだろうといささかさみしい思いもありました。ほんとうに、人間は20代のあいだにつくりあげた「私」というもので、その後の社会を生き抜いていくのだと思います。
そいつを捨てて、新しい「わたし」をゲットするというのが、いまのわたしの目標なのですが、なかなか難しい。毎日、「私」という「壁」に頭をうちつけるわたしです。
前ブログでジョエルの訃報をお伝えしました。そういう「遠い友」という存在の貴重さをとても思います。その意味では、先週でしたか、ベルリンからトビアス・チャンがやって来て、かれとのいつもの習慣ですが、下北沢の居酒屋でおいしいお酒を飲んだのが楽しかったかな。かれとは、川端康成の「名人」の話しをしたりしました。かれは川端の「雪国」のドイツ語への訳者なのです。われわれの会話は少し日本語、でもだいたいはフランス語です。ドイツ人とわたしが、フランス語で日本酒飲みながら川端の話しをしている。わたしにとっては、講演会とかセミナー以上に、そういうことこそが、UTCPという場の存在理由だったのです。そのような「友」がこの地球上に、そう、7人くらいはいる(もっとかな?)。Seven Times なんですね。だからこそ、そのひとつの、最大の星であったジョエルの死は打撃です。自分という「網」の一部が壊れたような感覚です。
そして昨日、3.11。わたしは正確に5年前と同じ場所、同じ場でその時を迎えました。わたしが長年、選考委員、評議員をつとめている日本証券奨学財団の奨学生修了式。あの日、控え室の窓から傍を通る高速道路の標識ポストがぐらぐらと揺れるのを眺め、さらにはわたしの挨拶のときに余震が来て、大きなシャンデリアが揺れてスピーチを中断しなくてはならなくなったことを、同じ如水会館の2階で思い出していました。
春はいつでも残酷です。美しく、しかし残酷です。でも、それは、われわれの生命というものの本質的な残酷さなのかもしれませんね。「余震」はまだ続いている、ずっと鳴りやまず続いている、と、そう自戒します。