★ 日日行行 (3)
★ 月が変わって10月、いよいよ秋が深まってきました。9月は旅の月でしたが、今月はどうなるか。Philosophiaの方へ戻らなければなりません。
それでも9月は、旅のあいだに、久しぶりにジャック・デリダの講演(口演)「Pardonner」を読んで短いみじかい書評(雑誌『ふらんす』掲載予定です)を書きました。未來社から守中高明さんの翻訳が今年出たところですが、わたしは、デリダはどうしてもフランス語で読まないと頭に入りません。かれの思考そのものが、フランス語(だけではないのですが)のラングそのものを相手にしているので、そのシニフィアンへの操作をほとんど触覚的につかまえないと、かれのディコンストラクションが理解できないのです。そこで躓くと、デリダがあるテーゼを提出しているかのような理念性の理解に陥ってしまいます。
でも、久しぶりに読む機会を与えられたのはしあわせでした。見事な演奏=解釈のパフォーマンスでした。デリダ・マシーンが美しく運動し続けるのを、まるで名演奏のコンサートを聴いているかのように愉しみました。書評は930字くらいのスペースしかなかったので、そこに書ききれないほど、いろいろな思いが交錯しました。
でも、そのなかのひとつは、やはりわれわれの日本語というラングのなかで、この「ゆるし」の問題がなかなか場所をもたないこと。それは、もちろん、「罪」という問題と深くリンクしているのですが(そしてなぜかデリダはその方向へは思考を展開していないのですが)、日本語の思考のなかで、「罪」と「ゆるし」の問題がどうなっているのか、考えこまないわけにはいきませんでした。
「実存」と「罪」とをどうつなぐのか、つながないのか。それは、一般的な問題という以上に、われわれひとりひとりにとっての問題でもあると思いますけれど………