破急風光帖

 

★  日日行行(683)

2024.12.23 Permalink

* さて、今日はどうだったか。冬至を超えて新しい回転へ、と来るべき時間へのエンゲージメントをひとつ課してみたのですが・・・どうなりますかね?

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★  日日行行(682)

2024.12.22 Permalink

* 昨日が冬至。もちろん、新年が年の切り替わりなのですが、わたしの精神にとっては、冬至が1年の極で転回点、ああ、またひとつの回転が終わったという気になります。

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★  日日行行(683)

2024.11.30 Permalink

* もうひとつご報告。おそらく今日くらいから各地の書店で、拙著『君自身のアートへ』(水声社、1800円)が発売になります。

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★  日日行行(682)

2024.11.30 Permalink

* 11月も終りです。10日からまた更新してませんね。結構、激しい3週間でした。前回で、ほのめかした映像ですが、青山学院大学の教え子のひとりであった齊藤さんに、八ヶ岳の小屋で映像を撮ってもらい、30分ほどのシネマとしてまとめてもらっているところです。

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★  日日行行(681)

2024.11.10 Permalink

* で、今日は、神楽坂のセッションハウスで、山田せつ子さんのソロ/ダンス「いま ここに います」を観てきました。4年ぶりのソロ公演とか。1時間のダンス、とても共感しました。ご自分の(人生ではなく)この実存を(振り返るのではなく)いま、ここ、として踊る・・・よくわかります。

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★  日日行行(680)

2024.11.10 Permalink

* 今月最初ですね。結構、忙しい日々でしたので。
 前回、観れなかったと書いたゴダールの最後の映画「Sinario's」は水曜の夜に日比谷で観てきました。短い本作とその打ち合わせ中のゴダールを撮ったドキュメントの二本立て。本作の方は、コラージュ作品で、人が殺される場面も多くあり、とても笑えるものではないのですが、なぜかわたしは、さすがゴダール、こう来るか!となんだか笑いたくなりました。変わんないなあ、やっぱりゴダールは最後までゴダールだ、と。

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★  日日行行(679)

2024.10.31 Permalink

* 10月も終りです。

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★  日日行行(678)

2024.10.27 Permalink

* 昨日はひさしぶりに映画館に行きました。午後、渋谷で少し時間の余裕があって、調べたら、ユーロスペースでアンドレ・ブルトンのドキュメンタリー映像をやるというので、行ってみました。

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★  日日行行(677)

2024.10.12 Permalink

* では、留留吾吾(2)
 今朝、心にもどってきた詩句はこれでした。
 
 きみはまだきみが信じたきみだけの絶望に支えられている
 きみが病患のなかに装填したものはほんとうは
 もうひとつの肉体の影像
 世界への愛
 希望だ

 清岡卓行の「氷った焔」ですね。長い詩ですが、10ある断章の9の後半です。

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★  日日行行(676)

2024.10.07 Permalink

* 突然、なんの脈絡もなく、記憶の底なしの底から、詩の2行が浮かびあがります。

   ああ麗はしい距離 
   つねに遠のいてゆく風景

  「距離」には「デスタンス」とふりがあったけれど、わたしには「ディスタンス」。吉田一穂の詩ですね。タイトルは「母」で、このあとに「悲しみの彼方、母への / 捜り打つ夜半の再弱音(ピアニツシモ)」と続くのでしたが、浮かんだときには、後半2行は随いて来てはいなくて、ただ、遠い記憶の彼方から、その「麗しいディスタンス」を越えて戻ってくる言葉がある、そんなことを考えていたのでした。
 「麗しいdistance」、これです。『麗しい」という形容詞、その漢字とdistanceの組み合わせ。そこに「麗しさ」があります。
 わたしは「母」のことを考えていたわけではないのですが、原文をチェックしてみたら、この「海の聖母」は大正15年(1926年)11月の刊行。じつは、それは、今月98歳になるわが母の生まれた年なんですね。やはり「母へのピアニッシモ」なのか!と思ったりもします。
 それはともかく、わたしには、このように言葉が、麗しいディスタンスを超えて、それこそ「再弱音(ピアニッシモ)」で回帰してくるということに心動かされます。
 じつは、「詩」の出来事とは、そこにあるのではないか、と。
 
 で、今年の2月から「週刊 読書人」で「百人一瞬」の連載をさせていただいています(すでに今週は35回目かな)が、それもまた、「麗しいディスタンス」に捧げられているわけなので、それこそ、「老い」というものの特権かもしれないと思い至ります。つまり、ディスタンスが麗しくなることこそが「老い」なのだ、と反転するわけです。
 ならば、このブログでそういう「つねに遠のいていく」詩句を、一瞬、引き寄せてシャッターをおすのもありかもしれませんね。
 そんなシリーズを夢見るように考えると、わたしの頭はすぐにタイトルに考えが行く。
すると、この「日日行行」に続けて、あるいはそれにならって、「留留吾吾」という言葉が浮かんでくる。

 日日行行、留留吾吾

 もちろん、これはアポリネールの詩「ミラボー橋の下」Sous le pont Mirabeau(1912年)のルフラン 「日々は過ぎ行き わたしはとどまる」 Les jours s'en vont, je demeure を踏まえています。そうですね、わたしはいつも、レオ・フェレ作曲のこの詩を口ずさんでますね。
 l'amour s'en va comme la vie est lente, Et comme l'Espérance est violente, Vienne la nuit sonne l'heure, les jours s'en vont je demeure
 ああ、夜よ来い、刻(とき)よ鳴れ 日々は過ぎ行き わたしはとどまる

 (この稿を、「留留吾吾」第1回としようかな?)
 

 



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