【報告】ロボエシックスは脳神経倫理学の轍を踏むか?―ワークショップ「ロボエシックス―ロボティクスと社会の未来像」
かつて倫理一般で語られなかったことを語るために生命倫理が誕生し、生命倫理で語られなかったことを語るために脳神経倫理が誕生した。そしていま誕生したロボエシックスが、脳神経倫理学の轍を踏まずに学問的確立を遂げうるか否か、いまだ未知数である。
2009年11月28日に行われたワークショップ「ロボエシックス―ロボティクスと社会の未来像」では、おおむね以下に記述するような内容が語られた。
石原孝二(東京大学)は、ロボットの特殊性は人工自律エージェントであり、ヒューマノイド型ロボットの特殊性は人間類似形態・動作の人工物の社会への導入にあること、これにともなう人間社会の変化と構成論的アプローチによる人間理解の深まりへの可能性を提示した。さらに、ロボット技術者のもつ未来社会像、その国ごとの相違、それらと表象文化との相互影響関係把握の重要性を指摘した。
高西淳夫(早稲田大学)は、IEEE-RASのロボエシックス技術委員会における論議を報告した。欧州にはロボットの社会進出を倫理問題として制限しようとする宗教観念を背景にした議論、米国にはロボットの軍事利用への制限に良き市民として反対するという議論がある。そして日本では、倫理問題発生以前の段階に止まる現在のロボット技術の技術的有効性の検証や安全性確立が優先されるべきであり、日本の伝統文化はロボットに親和的であるとされる、と述べられた。
柴田崇德(内閣府)は、動物(アザラシ)型ロボット「パロ」の現状を報告した。身体的心理的サービスロボットとして開発されたパロは、アニマルセラピーの心理的・生理的・社会的利点を備えつつ、生物がもつリスクを回避できる。使用者が「たましい」の存在を感じるパロの、欧州の病棟での実験に際する倫理委員会での議論、個別性や地域差、受容の社会制度化等が報告された。日本文化を生かして製造されるというパロは、世界中で人々の生活に入っているという。
小菅一弘(東北大学)は、ロボットの社会貢献を報告した。ロボットの歴史の一つはホメロスに始まるオートマタの夢、からくり人形から鉄腕アトムへの夢と好奇心としてのヒューマノイド・ロボットであり、もう一つは機械式遠隔操作マニピュレーターから産業ロボットへの人間のニーズに奉仕するロボットである。ロボティクスの社会貢献には「新しいビジネスモデルによる倫理的解決」がありえること、社会科学との連携がロボットを問題なく社会へ導入するために必要な旨を述べた。
前野隆司(慶應義塾大学)は、倫理の未来と構成論的アプローチのために、人間のサイボーグ化がどこまで許されるかについての脳神経倫理学的考察を通して、ロボットの心を作ることの帰結を検討した。そしてもしロボットの心が作れるなら、ロボットの倫理は人間の倫理と同一になることから、西洋哲学と人間中心主義の終焉が告知されるとした。またそれが作れずとも、脳神経科学とロボット技術は、ロボットの群れと昆虫の群れ、人間の群れを同様に扱えると指摘した。
石井加代子(大阪大学)は、人間と機械の相互作用史における現代の特徴を、ロボットという道具の擬人化と人間の擬ロボット化であるとし、ロボット工学の課題のひとつとして、人間らしい能力とされる予測不可能性への対応能力をもつロボットの開発をあげた。また自己内部の問題と周囲世界のそれへの区別なき対処は、人間には困難だが、すべてありのままに受けとめうるロボットには可能なので、この問題への構成論的アプローチができるようになるだろう、とした。
これら刺激あふれる先進的な報告および活発な全体討議のそれぞれにおいて、報告者同士および会場傍聴者との間に交わされた真摯かつ示唆に富む多数の質疑応答が、ロボエシックスの論議を更なる知の高みへと押し上げた。こうして、学問分野としての日本のロボエシックス誕生を出席者に確信させる知的熱気と興奮のうちに、本ワークショップは閉会した。
そして傍聴していた私は、本ワークショップでのロボエシックスの議論と方向性が脳神経倫理学の出現と展開の過程におけるそれを踏襲しているのではないか、という懸念を脳裏から拭い去ることができない。「脳神経倫理学の語られ方を問い直す‐委員会分析による脳神経倫理学の現状評価」(田野尻哲郎・廣野喜幸, 『哲学・科学史論叢 第12号』, 2010年)は、日本の脳神経倫理学の現状を、学問分野としての確立と脳神経科学への従属的地位の固定との同時進行であると指摘している。脳神経倫理学が脳神経科学の推進条件整備のための手段として位置づけられていること、日本の政策レベルでの論議における芸術・宗教等人文系諸分野の欠落等、この事態の詳細と生成機序は論文を参照いただきたい。この生成機序で、本ワークショップも解釈できそうである。
脳神経倫理学に最も切実な課題があるとしたら、それは<脳神経倫理学の推進のされ方がこのままでいいのかどうか>であり、これを問い続けることが同学問に求められる想像力・構想力を鍛えていくことにつながるのではないか、と前掲論文は結語している。脳神経倫理学の語をロボエシックスに置換すれば、これはいま勃興期にある日本のロボエシックスにも適用されうるフレーズであるように、私には思われてならない。
田野尻哲郎(東京大学大学院総合文化研究科)