Arbre / 哲学の樹

思考のパルティータ 15: 〈歴史の真理〉に向かって (15) ――非人間的なものについて  小林康夫

少なくともそこに収められた論文のうち二つは自分でも翻訳しているはずなので、そこで言われている思考の概略になじんでいないわけはなく、おそらく気がつかないうちに、わたしの思考のなかにもその「色」が密かに忍び込んでいるのだと思うが、最近になってあらためて、わたしにとっては「先生」のひとりであり、しかも――いっしょに伊勢や京都に旅行したり、北フランスの田舎の別荘に遊びに行ったりしたなあ――(ありがたいことに)「友人」でもあったジャン=フランソワ・リオタールの『非人間的なもの』(1988年)☆1という論集にまとめられた思考の傾きにもういちど向かい合ってみようか、と思い至った。
 

実は、今年は、リオタール没後10年。

亡くなったのは四月だったが、わたしはある新聞がこの春それに関連して原稿を書いてくれ、と頼んでくるまでそれをすっかり忘れていた。

原稿はいろいろな事情から書かないで終わったのだったが、応接のあいだに、なにか封印が解けたというか、その後、遺著のアウグスティヌス論断片やほかのテクストを読み返したりした。

わたしは「煉獄」と呼んでいるが、生きているあいだに影響力が強かった哲学者や思想家が亡くなると、直後の追悼は別にして、のちに一定期間の「沈黙」、「喪」あるいは単に「無視」の期間が訪れる。

直接的な、同時代的な関係ではなく、それとは別の、なんなら「古典」と言ってもいい関係が生まれ出るためにはどうしてもくぐっていかなければならない空白の時間・個人的な思いにすぎないが、わたしにとっては、その「煉獄」の扉が少しあいたような感覚である。
 

これにはもちろん伏線があって、この2008年10月ブエノスアイレスの国立図書館で行なわれたパリの国際哲学コレージュ、ブエノスアイレス大学、われわれのUTCP共催の、人文科学の危機に関するシンポジウムで行なった発表で、ここ二、三年考えていたことだが、やはりいま、人文科学、つまり「人間の思考」が「人間」というその根本理念そのものを超え出ていかなければならない歴史的な必然があるのでは、と問いかけたということがある。

そこでは、わたしは「システムの思考」とそれに回収されないまま「残り」続ける「人間の思考」とをとりあえず分けたうえで後者の根拠を問う、という仕方で問題を考えていたのだが、原稿を書きながらリオタールの「非人間的なもの」が、レミニサンスのように戻ってくるのを感じていた。

20年の時間の遅れを通して、ここでほんのわずかに、それに「連鎖する」(これはリオタール哲学の鍵語のひとつであった)ことを試みよう。
 
 

『非人間的なもの』は16本の、基本的には講演テクストを集めた論集だが、その冒頭に「人間的なものについて」という序文がついている。

1988年という出版の時を反映して、フランスの哲学の舞台における(リオタール自身の言い方だが)「ネオ人間主義」の思考の潮流(意味、コミュニケーション、合意、共同性、同質性、等々)に対抗して、これも危うい言い方だが、あくまでも「前衛の思考」(出来事、係争、異質性、等々)を擁護するというポジション。

「非人間的なもの」とは、まさにこのポジションを際立たせるための「係争的な理念」であり、直接には、アポリネール(「芸術家とはなによりも、非人間的になることを望む人間たちなのだ」)とアドルノ(「芸術が人間に忠実であるのは、ただ人間に対するその非人間性によってなのだ」)がその保証人として呼び出されている。
 

(出版当時に読んだときには、そうは感じなかったのだが、いま読み返してみると、この論集はある意味では、二十世紀の芸術文化運動を貫いた「前衛」――ジャン=フランソワよ、この言葉は「いやな言葉」だとわざわざ括弧で断っているあなたの「心」がよくわかる!――への「最後の弁明」であるかのように思われて少し胸が痛む。すなわち、一九八九年の前年だ!、時代の大きな転換の「切迫」のなか、なにものかへの「最後の抵抗」。そこになにかしら、魂の苦さのようなものが感じとられるのは、たんに、わたしが老いたということなのかもしれないが。)
 

だが、それだけではない。リオタールはそこで今日「非人間的なもの」を問う二つの理由をあげていて、
 

ひとつは、「もし人間主義が言う人間的なものが、今日、非人間的なものにならざるをえなくなっているとしたらどうだろうか?」、そしてもうひとつが「もし人間の〈固有性〉とは、人間が非人間的なものに住まわれていることだとしたらどうか?」
 

前者は、あらゆる意味でのエコノミーとテクノロジーによって支えられた、すでに個人を単位とした「人間」の尺度も力もはるかに超え出た、しかも日々、みずからを更新、再組織化していくようなシステムのことであり、それはこの序文では、端的に、「発展」の運動としてとらえられている。
 

後者は、リオタールにしては少し謎めいているが、ごく簡単に「魂がその人質であるような、限りなく秘密の非人間的なもの」とだけ言われている。
 

そして、これに続けて、かれは、――自己批判と言うべきだろうか――「わたしがかつてそうしたように、前者が後者を中継し、その表現となるなどと考えるとしたら、それは完全に過っている」と言うのである。

おそらく、ここで問題となっているのは、68年の熱狂の余韻のもとで70年代、「一次プロセス」、「衝動」、「強度」などの名のもとに、あらゆる秩序化つまり体制化の動きから限りなく逃げていくような「リビドー的エコノミー」の「夢」を語ったことだろうか。

それは主体の解体ないし解消の「夢」であった。

「強度」というあらゆる人間的なものの彼方あるいは手前によって、人間的な「意味」やシステムに回収されない世界を想像すること。

だが、言うまでもなく、これは「夢」としてしか保持できない。

歴史も主体もそのように「性急に」解消されることはできず、たえず倫理の問いが戻ってこざるをえないのだ。
 

よく知られているように、70年代の終り、――ほかの多くの哲学者とともに――リオタールもまたカント哲学(とりわけ崇高論)をひとつの目印にして、正当化の根拠を見失ったポストモダンにおけるミニマルな倫理の探求へと方向転換する。

歴史と魂とを連続化することはもはやできず、かといってあらためて「人間」という理念の下でモダンの神話を再構築することもできない。

歴史と魂とを連続化することはもはやできず、かといってあらためて「人間」という理念の下でモダンの神話を再構築することもできない。

とすれば、歴史と魂とのあいだを、いったいどのように媒介することができるのか――それがリオタールの問いなのだ。
 

かれは言う――「システムにはシステムから逃れるものを忘れさせてしまうような効果がある。しかし不安、つまり親しいのではあるが未知の「主人=客」に取り憑かれ、揺り動かされた精神の状態は、精神を錯乱させるが、また思考をうながしもする。不安を排除するなどと主張したり、それに出口を与えないようにすると、それはひどくなる一方である。文明とともに社会的不安は増大し、情報とともに無意識的排除(forclusion)は増大するのだ」。
 

実は、この段階では、われわれは魂の非人間性! についてリオタールがどういうことを考えていたのか、はっきりとわかっているわけではない。

すでに引用した「魂の人質」にしても、ここでの「主人=客」にしても、かれが魂を、身体とはちがった意味において、物質的であり、それゆえ非人間的であるようなものに「囚われた」ものとして考えようとしていることが漠然とわかるだけである。

おそらく、90年代のリオタールの思考は、遺稿のアウグスティヌス論がそのひとつの帰結であるような方向に向かうことになるのだろう。

いずれにせよ、テクノロジーと結託した資本主義がそのひとつの形であることが明白な非人間的な歴史(「発展」)とほとんど物質的かつ非物質的であるような非人間的な魂とのあいだには媒介がなく、その媒介の不在が不安として現われてくるというわけで、もちろんラカンの精神分析や情報テクノロジーを経由してはいるが、そこにむき出しで「人間」の存在、あるいは「人間」の場所が露呈しているという構図は、実は、たとえばハイデガーの『存在と時間』からそれほど遠く隔たっているわけではないだろう。

ただ、ハイデガーなら、その不連続な隔絶を人間の「固有の意味」、「本来的な意味」によって架橋しようとしたということになるわけだが、80年代のリオタールはもはやそのような「人間主義」には戻ることはできなかった。
 

では、どうしたらいいのか。

最終的には、リオタールの答えは、答えのなさに耐えること、答えがないところでなお答えに向かって「錯乱する」こと、あるいは「思考する」ことであるように思われる。

かれとしては、この錯乱=思考の権利を確保したい。

そのとき呼び出されるのが、インファンスのフィギュール。

すなわち、猫ならば生まれてすぐにあっという間に猫になるというのに、人間は、生まれても「コドモという悲惨」の状態、「人間」以前の存在状態にとどまり続けなければならない。

コドモは長い時間をかけて言語を習得し、「第二の自然」とも言うべきさまざまな文化と社会を学び、それを通じてはじめて「人間になる」。

コドモという前人間的な、そして非人間的な存在――これこそが「人間」なのだとしたらどうか。
 

おそらく、コドモという存在は、リオタールにおいては、物質的な、非物質的な非人間性の「人質」となっている「魂」を「中継」するものである。

ここではそうはっきりと言われているわけではないが、コドモは、その根本的な脆弱さ、非自律性、不能力において、同時に、その未決定性、「来たるべきもの」の約束、学びの可能性において、「魂」の根源的な存在様態を指示しているのだ。

とすれば、それはリオタール自身が言っているように、「アクセントの置き方のちがい」にすぎないのでもあるが、しかしかれとしては、こうした「人間になる」が弁証法的な運動のうちにきれいに回収されてしまうのではなく、おとなの体制においてもインファンスがあくまでも「残り」つづけることを強調したいわけだ。

すなわち、「人間」の生成のうちに完成し、解消し、回収されずに残り続けるものとしての「コドモ」。

残余としてのインファンス。

そしてその明証こそ、エクリチュールであり、芸術、哲学、文学であると言うのである。
 

この序文の最後にかれは次のように書いている――「このような幼年時への負債を、われわれはけっして清算することはない。だが、抵抗するためには、そしてたぶん、不正にならないためには、そうした負債があるということを忘れないだけでいいのだ。負債を証言するために冒険すること、それこそ、エクリチュール、思考、文学、芸術の使命にほかならない」、と。
 

こうして残余の哲学が呼びかけるのは、抵抗の政治である。

その少し前に、リオタールははっきりと、「革命的な思想や行動から〈われわれ〉が受け継いだ政治は(嘆くのであれ、喜ぶのであれ)今後、もはや役に立たない」と言い放っていた。

もはや「別の政治」を求めることはできない。

「発展」の非人間的な運動はすでに歴史の現実であり、どんなシステムの思考も最終的にはそれを改良し、補強することに奉仕するだけである。

とすれば、「この非人間性に対する抵抗以外のいったいどんな〈政治〉が残っているというのか」。

力と物質のテクノロジーと結びついた資本主義という「非人間的なもの」に対する抵抗として、われわれの誰もが、われわれの存在の奥に――「限りなく秘密な」仕方で――排除的に保持しているインファンスという「非人間的な存在」、この「ことばなきもの」に語らせる以外にいったいなにができるというのか。
 

こうしてエクリチュールと芸術の政治的な使命が確言される。

だが、それらの仕事はあくまでも「個人」の仕事である。

「コドモ」が残存し続けるのは、つねに「個人」の「うち」にである。

思考する人も芸術家もたしかに、つねにみずからの「うち」に残り続けるインファンスを語らせようとする。

それはかれらの「使命」だ。

だが、それでもなお、それだけが残された「政治」の可能性なのか。

それは二十世紀という時代をかけて「前衛」がたどり着いたある種の「否定政治」の究極のあり方にすぎないのではないか。

われわれはいま、そこからの絶望的な転換をこそ果たさなければならないのではないか。

――ここでは、やはり20年という時間の経過を経て、その間のドラスティックな世界の歴史の変動を受けて、影のように差し込む疑問をただ書きつけておくことしかできない。
 
 

☆1 Jean-François Lyotard, "L'inhumain Causeries sur le temps", éd. Galilée, 1988. 邦訳は、篠原資明ほか訳『非人間的なもの』、法政大学出版局(叢書ウニベルシタス744)、2002年。


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