とすれば、それはリオタール自身が言っているように、「アクセントの置き方のちがい」にすぎないのでもあるが、しかしかれとしては、こうした「人間になる」が弁証法的な運動のうちにきれいに回収されてしまうのではなく、おとなの体制においてもインファンスがあくまでも「残り」つづけることを強調したいわけだ。