いずれにせよ、テクノロジーと結託した資本主義がそのひとつの形であることが明白な非人間的な歴史(「発展」)とほとんど物質的かつ非物質的であるような非人間的な魂とのあいだには媒介がなく、その媒介の不在が不安として現われてくるというわけで、もちろんラカンの精神分析や情報テクノロジーを経由してはいるが、そこにむき出しで「人間」の存在、あるいは「人間」の場所が露呈しているという構図は、実は、たとえばハイデガーの『存在と時間』からそれほど遠く隔たっているわけではないだろう。