Arbre / 哲学の樹

思考のパルティータ 16: 〈歴史の真理〉に向かって (16)   小林康夫

先月、パリの高等師範学校とパリ国際哲学コレージュとで二日間にわたって、わたしが拠点リーダーをしているUTCPの主催で国際フォーラム「哲学と教育」が行なわれた。

これはUTCP特任研究員の西山雄二さんが全体を企画しているもので、パリのフォーラムも今回が三回目。その全部の発表原稿が近く未来社から論集として刊行されることになると思う。
 

今年の一日目は「哲学への権利――グローバル化時代における研究教育制度の脱構築」で、日本からいっしょに行った藤田尚志さん、橋本一径さんにストラスブール大の津崎良典さんがそれぞれ「礼 politesse」、「養成 formation」、「評価 évaluation」という問題を論じ、それを詩人のミシェル・ドゥギーさんがコメントするという展開。

二日目は、「高等教育の国際的状況と人文学の未来」という総題のもと、イタリアから来たコジェーヴの研究家のマルコ・フィローニさん、コレージュのジゼル・ベルクマンさん、西山雄二さんがそれぞれイタリア、フランス、日本の、――どれもかなり厳しい!――状況を報告して問題点を指摘し、それを受けてこの十月にブエノスアイレスでもいっしょに「人文科学の危機」を語りあったフランシスコ・ナイシュタットさんがシュミットとベンヤミンを対比させつつ、至高の主権性つまり政治的決定という視点から世界化(グローバリゼーション)の問題を分析した☆1。

この二日目の司会をしながら、大学とりわけ人文科学の問題についてそこで語ったことを、アトランダムではあるが、少し整理してここに報告しておきたい。
 
 

現在の歴史状況における「大学の危機」は、それぞれの国によってそれぞれの伝統や政治によって無視できない差異を含んではいる(たとえば私立大学がほとんど存在しないフランスと日本の状況を一概に同じ視角から論じられるわけではない)が、一般的には、惑星規模で進行する「一般化された競争」というグローバリゼーションのダイナミズムに大学が避け難く巻き込まれるという事態に由来する。
 

ナイシュタットさんが強調したように、このグローバリゼーションは、われわれが「選択」したものではない。

グローバリゼーションは、たとえば「啓蒙」とは異なって、理念なき歴史的現実であり、そこでは確かに「われわれが選択的に決定する」という審級が欠けている。

この決定の不在、ないしは決定の不可能性は、ナイシュタットさんによれば、国家の主権性をも危うくする。

もはやカール・シュミットが言う「例外状態における決定」という形で至高性を定義することは難しく、むしろベンヤミン的な「バロック」の決定不能性がレフェランスになる、とナイシュタットさんは言うのだが、それに対しては、わたしは、いや、むしろグローバリゼーションとは、国家どころか、企業であれ、個人であれ、すべての主体が、恒常的に「例外状態」にあって、つねに決定を迫られているという事態ではないか、とコメントした。

言うまでもなく、ここにおいてはどのような決定も決定的ではなく、ただ「例外状態」を先送りし、引き延ばし、あるいは逆に、他者より早く行動し、速度において勝り、そうして二重の意味で「時間を稼ぐ」ことだけが、問題なのではないか。
 

そしてこの「時間の競争」のなかに、大学の「真理」もまた巻き込まれている。

いや、たんに巻き込まれているというより、最近メディアに大きく取り上げられたIPS細胞の研究が端的に示したように、わずかな時間の差がそのまま「真理」の所有権を左右する。

そこには「真理」を資本化する権利が生じているのである。

技術に直結した科学分野においては、すでに「真理」は――たんに実験に対してというだけではなく、人材の養成までを含んで――莫大な投資なしには「産み出され」ない。

場合によっては、国家的な規模での投資が必要不可欠なのであり、それこそがまさに大学行政に「エクセレンス」という、究極的には判断基準なき選別を導入させるものなのだ。

つまり、社会がすべての大学に等しく資本投下することはできないので、一部の「拠点」に集中的に資本投下するというわけである。

「卓越」しているから拠点化されるのではなく、拠点化されたからこそ「卓越」とみなされるのだ。

「選択と集中」の手法、それがエクセレンスの論理なのである。
 

この資本投下は、当然、社会からそのパフォーマンス、つまりその成果、効果を問われざるをえない。

つまりエクセレンスの論理は、評価によって裏打ちされなければならない。

だからエクセレンスと評価は同じ盾の両面であり、その回路のうちで「真理」はすでに資本なのである。
 

もちろん、こうした事情はかならずしも人文科学にはあてはまらない、とも思われよう。

なるほど資本の投下は最小限である。

だが、それでもたとえ人件費だけだとしてもなお、それが資本投下であることは否定できない。

確かに莫大な投資を要求する理系の学問とそうではない文系の学問のあいだに無視しえない分断はあるが、そしてそれが今日の大学の困難のひとつではあるが、それでもなお今日の大学が全体としてこの「資本としての真理」によって条件づけられていることは変わらないだろう。
 

この歴史的な現実に対して、たとえば「真理の場所」というような伝統的な定義を繰り返すだけで批判的にかかわることができると考えるのはかなりナイーヴと言わなければならない。

人文科学のナイーヴさというものがあって、それは最終的には、「私が内在的に考えるということが社会的にアプリオリな価値をもつ」はずである、というほとんどパラノイア的な、そして不安に満ちた確信へと自閉する。

もちろん、この人間の内在的な普遍性の証明としての人文科学の意義――それは極論すれば、「文学」の決定的な重要性と相関している――はけっして無効になっているわけではなく、今後もわれわれがまもり続けるべきものとしてあるのだが、にもかかわらず、もはやそれだけでは、個人という「人間」の尺度をはるかに超えた今日の歴史的な現実に対して批判的にかかわることは難しい。

おそらく、今日、人文科学に、つまり遂行的効果に回収されないものとしての「人間の思考」に対して求められていることは、こうした内在的人間という閉域を問い開くことではないだろうか。
 

だが、どのように突破できるのか。今回のパリ・シンポジウムの最後に司会として総括のコメントをしながら、わたしが少し苦しみながら考えていたのは、なにがこの突破の根拠となるか、ということだったのだが、そのときナイシュタットさんの「世界の政治的な意味」☆2の探求という言葉に誘導されたのか、わたしが思わず語りだしていたのが、「真理」は政治的である、というテーゼであった。

そのときのわたしの直観は、もしこの時代に、「真理」が資本であるとしたら、それは広い意味で、「真理」が技術的なものであるということを含意しているわけで、この歴史性に反撃するためには、技術性を政治性として二重化するしかないということだったと思う。

言い換えれば、〈歴史の真理〉とは、まさにこの歴史的時代にあって、「真理」が、技術性と政治性の二重性として現われてくるところにある。

それは「真理」が〈歴史の真理〉であるということであり、それこそ〈真理の政治〉なのだ。
 

「真理」は政治(的)である。

いや、「複製技術時代の芸術」の掉尾に響くベンヤミンのフォルテシモをまねるならば、資本が「真理」を技術化するのであれば、それに対抗して、「人間の思考」は、「真理」の政治化をもってするであろう、ということになるかもしれない。

政治とは、それがどのようなものであれ、技術的なものと相互浸透している。

もちろん、たんなる「もの」の技術ではなく、「ひと」が本質的に「ひと」とともに「ある」ということについての技術的なものであり、広い意味での制度を含意しているが、同時に、おそらく現実的に確立された諸「制度」をはるかに超えてもいる。

つまりそれは、われわれの存在そのものが、決定的に、そして根源的に、歴史的であり、技術(=政治)的であることを暗示しているのだと思われる。
 

これは、別の言葉で言うならば、少なくとも「人間の思考」つまり人文科学にとって、普遍性は、たとえ「地平」といった意味においてすら、前提ではなく、むしろけっして到達できない「目的=終り」であり、そこに向かっての運動そのものが、――ナイシュタットさんも言及していた、デリダが『条件なき大学』において中心的に援用したカントのあの「als ob」(あたかも……であるかのように)の論理のもとで、と言ってもいいが――そのまま政治的であり、政治的であらねばならぬということである。
 

もちろん、この政治を人文科学の仕事のなかで具体的にどのように「想像する」か――パリのフォーラムの場では、司会のコメントという枠のなかで、思わず語りだしていたというだけなので、その論理をもっと詳しく追跡することはこれからの課題ということになるが、しかし同一性の自閉的な論理にも、また、反対に、絶対的な他者(一なる他者)との(不可能な)関係の論理にも陥らずに、つねに開かれた複数の、そして複雑な自他関係を絶えず横断し、組み換えていこうとするべきだ、ということだけは言えるだろうか。

それは、当日のこととしては、わたしが「責任がないものに対する責任」という言葉で言おうとしたことにほかならない。
 

それは、おそらく思考という運動が運動としてもつ権利であり、義務である。

責任があるものに対して責任を負うのは当然だろう。

そして責任がないものに対して責任をとることができないというのもまた当然だろう。

にもかかわらず、思考は、もしそれが「人間の思考」であるならば、かならずや「責任がないもの」に対する責任――つまり呼びかけなきものへの応答――を実践しようとするだろう。

思考は、みずからの責任を超える責任を、誰からも何からも課せられたわけではなく、負う。

思考は、その「例外状態」において、「als ob」に、あたかもみずからが現実的な決定性をもっているかのように、みずからを決する。

それは無力な決定、そして主権なき決定なのである。

しかし、この無力のなかにこそ、おそらくわれわれがまだその十全な意味を知らないままでいる「人間」に対する責任が密かに潜んでいる。

無力な決定は、来たるべき「人間」の呼びかけへの応答である。

その来たるべき「人間」の遠さこそ、「人間の思考」の究極の根拠であり、そこにこそ――「普遍性」という名によって定義された「大学」University――つまり「条件なき大学」の至上の責任がある、とわたしは思う。☆3
 
 

☆1 このシンポジウムの詳細な報告は、UTCPのサイトにアップされている。(http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2008/12/post-153/、http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2008/12/post-154/)

☆2 「リアリティはもはや事実性のうちにしかない、そしてこのリアリティと、カントに続いてデリダが求めるあの『als ob』つまり無条件の『あたかも~のように』を内包しうるもうひとつのリアリティのあいだのずれのうちにこそ、大学は、コスモポリティックな視点の思考として、世界の空間を、世界の政治的な意味についての問いへと開くことができるのだ。」(フランシスコ・ナイシュタット「現代の大学におけるコスモポリティスムと世界化」、2008年11月25日の口頭発表テクストより)

☆3 数日前に、韓国のヨンセイ大学の白永瑞先生(国学研究所)のお招きで、ソウルに行って、人文科学の危機と「責任」の問題について講演をした。こうして、この秋は、アルゼンチン、パリ、ソウルと移動しつつ、大学とりわけ人文科学の危機にどのような思考を発動させるか、ということを海外の研究者たちといっしょに考えるという時間となった。そのなかでわたし自身の思考は、「責任」そしてそこから「政治」へと少しずつ展開(転回)しているが、さて、どうなるのか。いずれにしても、これらの友情に支えられた対話の機会に、2008年の終りにあたって、この場を借りて、感謝を申し上げたい。


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