Arbre / 哲学の樹

思考のパルティータ 4: 〈歴史の真理〉に向かって (間奏曲)   小林康夫

転調。たぶんスケルツォ、あるいはファンタジーか。
 

毎回、断片的な断章を書かせていただいているが、原則的には、「時代」というかなり複雑な問題系に向かいあってみて、そこで自分の乏しい思考がどう発動するかを験してみる、という構え。

ただ、言い訳めくが、なにか論じるべき素材があって考えるというより、なるべくそうした要素を削ぎ落として、「純粋」という言葉が適当かどうかは微妙だが、内発性だけに頼ってともかく「書く」というロゴスのオートマティスム。

かなりの緊張を強いられる。

で、今回は、雑誌の切迫と日常(つまり限りなく非日常的な日常)の切迫の狭間でその緊張を持続する「とき」の訪れを待つ余裕がない。

というわけで、余白に書かれたひとつの大きな「註」として短いスケルツォを挿入することをおゆるしいただきたい。

最近のわたし自身の《出会い》あるいは《対話》のなかから、わたしが受け取った「思考の贈与」のいくつかへの応答を、感謝とともに投げ出しておく。
 
 

――最初はまず昨夜のこと。

わたしの大学院のゼミで同僚の杉橋陽一さんを迎えてニーチェについて語っていただいた。

わたしのゼミは、わたしがリーダーをしているグローバルCOEプロジェクト(UTCP)の教育プログラムも兼ねていて、その今年のテーマは「時代」。

実は、これは、この連載とも連動していて、ゼミを運営していくわたしの思考の基本線を自分なりに確かめる作業がこのパルティータでもある。

この秋から、「時代」というテーマに沿って、ドゥルーズ、ハイデガー、ブランショ、フーコーという順にさまざまな思考の生成と形態を追ってきた。

しかし、「時代」という問題を立てる以上はニーチェに触れないわけにはいかない。

もし、われわれがいま考えるような激しく「へとドライブのかかった「歴史」なる観念が成立するのが、西欧一九世紀だとすると、その「歴史」の底を破る「反時代的な」思考を「歌った」のがニーチェ。

その巨大な独立峰にアプローチをする手がかりだけでも得たいというわたしの願いを杉橋さんは快く聞き届けてくれて、実は、まだ大病のあとのヒハビリ中というのに、ご自分の最近の「発見」までを含めて、ニーチェの全体像を熱く語っていただいた。
 

杉橋さんの話のもっともオリジナルなところはニーチェの詩にかかわるのだが、それは近くご自分で発表なさるだろうから、ここでは触れない。

わたしはただ、自分の問題設定に引きつけて、そのときいっしょに読んだニーチェの断章(『悦ばしき知識』380)の「われわれはいとも軽くあらねばならない」という言葉をあらためてマークしておきたいだけである。

この断章は、――さすが杉橋さんだ!――まるでニーチェの全体が凝縮しているようなテクストで、それを読むとかれの意志あるいは願いが、結局、「われわれのヨーロッパの道徳性」から浮上し、飛び立ち、それを超えた「幾千年にわたって俯瞰眺望のできる眼」をもつことであったことがよく理解できる。

ニーチェの天才は、「道徳性」が身体であり、身体にかかる重力であることを見抜いていた。

「ヨーロッパ」とは「われわれの肉となり血となってしまった主宰的価値判断の総計」という意味なのだとかれは言うのである。

問題は、認識すらけっして自由にはならない「自由にならぬ意志」というこの「特殊な重さ」である。

そしてそれこそ、おそらく「道徳性」として現われる「歴史」なるものの重力、「時代」の重さであるにちがいない。
 

だが、それでは、どうやってわれわれは「軽さ」を獲得できるのか。

ニーチェ自身は、そこでかれが暗示しているように「いささかの狂気」、奇矯な「没理性」のほうにまっすぐに――いや、ダンスの軽快なステップを踏みながら――「落ちて」行くように思われるのだが、それが「いとも軽くある」ことであったのだろうか。

いずれにせよ、ニーチェにとっては、杉橋さんが丁寧に教えてくださったように詩というリズムこそがその「軽さ」への方法であったことだけは確かだろう。
 
 

――だが、きっと『重力と恩寵』を書いたシモーヌ・ヴェイユならば、「軽さ」という限りは、それは「重さ」との相対性を免れていない、と言うだろうか。

彼女なら、「軽さ」ではなく、「光」と言うべきだ、と。

だが、そのヴェイユもその「光」の発現である「恩寵」について、なんと「恩寵とは、下降運動の法則である」と書いている。

「創造は、重力の下降運動、恩寵の上昇運動、それに二乗された恩寵の下降運動からできあがっている」。

あるいは、「精神的な重力は、わたしたちを高みへとおとす」。
 
 

――実は、その二日前、金泰昌さん(公共哲学共働研究所長)が主宰する公共哲学京都フォーラム「公共人間の根拠と可能性」という場で、わたしもまた、「重さ」としての「時代」について語っていた。

すなわち、極言すれば、垂直的な「重さ」に「軽さ」を対置するのではなく、むしろ端的に「否(ノン)!」――根拠なき絶対的な「否(ノン)!」――を言うこと。

そしてその「否!」が(再 - )刻印する「限界」に立ち続けることを、モーリス・ブランショの1958年から69年にかけてのいわゆる「政治参加」――というより「拒否の政治」と言うべきかもしれない――のエクリチュールを通じて辿ってみた。

わたしの発表の主な軸は、実は、超越的権力者であったド・ゴールとブランショとのあいだの想像的な対関係の分析にあり、そこからひとつの「否!」が象徴的な「名」へとメビウス的に連関するあり方を浮かびあがらせたいと思ったのだが、このフォーラムの全体はまた別に公刊されるだろうからここではこれ以上は触れない。

だが、ブランショは、この絶対的な「否!」――ある意味では全共同体を拒否するがゆえに本質的な「孤独」へとひとを追いつめるものであるこの「否!」――が、しかしほとんど不可能な「友愛」の地平を開くことを言い忘れはしなかった。

――「彼らに残されているものとは、何ものにも還元しえない拒否であり、厳格不動で確固たるこの否(ノン)の友愛である。それが彼らを結びつけ、連帯させるのだ」。

そう、ニーチェに、そしてきっとヴェイユにも、欠けていたのは、この「友愛」である。

「絶対的な否」の後にそれでも「残る」ものとしての「友愛」。
 
 

――この京都フォーラム、さまざまな方の発表があってそれぞれ興味深かったが、わたしが自分の発表へのもっとも深い応答と感じたのは、劉燕子さん(中日複数言語総合文芸誌『藍・BLUE』編集長)の発表。

とりわけそこで紹介された、1966年ラサに生まれた女性作家・唯色(オセル)さんのエピソード。

これもわたしはわずかに要点だけを語るだけだが、彼女が書いた評論集『西蔵筆記』が中央政治宣伝部や中央統一戦線部から発禁処分を受け、さらに自己批判の「通関」を迫られたときに、彼女がそれを「拒否」し、ラサを離れるという決断をするというまさにブランショ的な「否!」の実践があり、しかも、彼女の父親が「文化大革命」期のチベットを撮影した数百枚のネガを、会ったこともない作家・王力雄に「送 = 贈」ったというエピソード。

この写真は最終的には台湾の出版社から『殺劫』というなんとも強烈なタイトルを冠して出版されることになるのが、王力雄がそれに序文を寄せていて、その最後に「附記すれば、唯色はいま私の伴侶となっている」と書かれていて、それがわたしの心を熱くした。

「時代」の重さ――そう、それはまずなによりも言葉の上にかかってくる――に対して「否!」を言うことは、現実的にであれ、精神的にであれ、ある種の「亡命」(なんという言葉だろう!)すること、「外部」へ、「命」の「外部」へとみずからを投げ出すことである。

ニーチェはみずからを「漂泊者」と規定し、実際、イタリアをさすらい続けた。

だが、そこには「友愛」の連帯もまたある、とブランショは示唆する。

王力雄が言う「伴侶」こそその「友愛」の不思議な現実化とわたしには思われた。
 
 

――そして一週間ほど前に、やはりわたしのゼミの枠内で、三週間にわたるイスラエル・パレスチナの滞在から帰国したばかりのUTCP研究員・早尾貴紀さんによる報告会があった。

イスラエル国家が現在、建設を進めている、あのスキャンダルそのものである「壁」も含んだ多くのスライド資料とともに、その地に住むさまざまな人たちの具体的な活動のあり方について、歴史的な展開を踏まえた注意の行き届いた報告をしてくれた。

とりわけイスラエル国籍をもっている人たちが実はきわめて多様であることなど、われわれの不明を開かれることもたくさんあった。

複雑な現実に対応する思考の未整理のなかで、しかし浮かびあがってくるのは、やはり「近代国家」の本質的に不幸な「暴力」のカリカチュアのように凝縮された像と言うべきだろうか。
 

ある意味では「亡命」を自己の運命(ディアスポラ)としていたユダヤ人が、まさに歴史の「断絶」そのものを通して「ユダヤ人の国家」を強制的に、暴力的に形成するという大いなるパラドックス。

ただひとつのこの「目的」のために、国民も国土も、偽装し、分断し、破壊し続けるという、ブランショ的な言い方をすれば、文字通りの「本質的倒錯」。

醜悪なまでの非人間性を誇示している無機的なコンクリートの「壁」の垂直性は、おそらく最終的には人々の「恐怖」に根ざしているのであろうが、それゆえにけっして不幸を免れることのない近代国家の「重力」、もはや「道徳性」という次元を離れ、国家に委託された「歴史的存在」の暴力性を指し示しているのだと思われた。
 

早尾さんの報告のなかでもわたしがもっとも心動かされたのは、ヘブロンにあるアブラハム(イブラヒーム)の墓所ということになっているモスクかつシナゴーグ。

その寺院の内部空間すらもが、ユダヤとイスラームに分離壁によって分断されているという異常な空間。

祈りの場所が同時に、敵対と分断の場所であることに、わたしとしてはショックを受けざるをえない。

だが、分断があるということは、同時に、分有の原理的可能性を暗示しているはずで、早尾さんが言うように、もしもはやイスラエル・パレスチナの二国家並立という「政治デザイン」すら、多元的な複雑系のもとにある現実に対して、ミニマルな希望をも保証しないことが確かだとするならば、わたしが窓際の夢想のように思うのは、アブラハムというひとつの「起源」の「名」を、イスラエルという約束の「名」を超えた分有へと開くことだが、この無意味な「軽さ」をひとつの星のように彼方に夢見ることが、現在のわたしの思考の「限界」であるようだ。


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