Arbre / 哲学の樹

思考のパルティータ 8: 〈歴史の真理〉に向かって (8) ――金杭さんへ――   小林康夫

4月12日に、2008年1月までUTCP(共生のための国際哲学教育研究センター)のPD研究員で、現在では韓国・高麗大学の研究員である金 杭(キム・ハン)さんの博士論文審査会があった。

論文のタイトルは「セキュリティの系譜学:生と死のはざまに見る帝国日本」で、〈セキュリティ〉という概念をいわば燈台として膨大な資料を読み込みながら、丸山眞男ほかの国家批判が最終的には、自然主義的な国家観に回収されるその限界線を、植民地「朝鮮」、あるいは関東大震災における朝鮮人虐殺などの忘却された「原・光景」の闇の光によって、批判的に照らし出した力作であった。

わたしは、同僚の高橋哲哉さん、松浦寿輝さん、中島隆博さん、そして李孝徳さん(東京外国大学)とともに審査員ということになって審査にあたったが、ここではその審査の全体を繰り返すのではなく、広汎なその論文からただひとつのトピックを取り上げて、その後にわたし自身がふらふらと考えたことも含めて、若干のコメントを残しておきたい。
 
 

「その家には人間と豚と犬と鶏と家鴨が住んでいたが、まったく、住む建物も各々の食物も殆ど変わっていやしない」――これがはじまりである。

いや、ただ単に金杭さんの論文「セキュリティの系譜学:生と死のはざまに見る帝国日本」の冒頭の一行であるだけではない。

当然のこととして、これは引用であり、しかもこれもまた、ある作品の冒頭の一行である。

作品は、坂口安吾「白痴」(一九四六年)。

言うまでもなく、空襲下の戦時体験を描いて、同時にそれを描くことで、戦後という時代の「人間」にかかわるあらゆる「問い」の「はじまり」を画したとも言うべき記念碑的テクストである。

言葉もかろうじてしか出てこないような「白痴」の女、しかも隣人の妻である女を、みずからの茅屋に匿い、同衾し、そして空襲の戦火に追われてともに林のなかに逃げこむ。

豚のような鼾声をたてて眠りこけている女を見つめながら、主人公は「まったくこの女自体が豚そのものだ」と思い、最後に「俺と俺の隣に並んだ豚の背中に太陽の光がそそぐだろうか」と考えるというところでテクストは終わる。
 

疑いもなく、ここには一つの「原・光景」がある。

金杭さんは、これを、いわば「素っ裸の肉体」の個別のセキュリティだけが問題になる「原・光景」として召喚し、この「原・光(景)」の系譜(学)のセリーによって、その批判者たちの思考をも回収してしまった「帝国日本」の生成を明らかにしようとする。
 

「主人公は、白痴の愛を受け入れるためには自ら白痴に成り下がるしかなかった。だが、世間の掟はなかなかそうさせてはくれない。空襲はこの掟を取っ払ってくれるものだった。そこで主人公は一つの肉塊、一つの動き、豚になった白痴を通して人間と出会う。つまり主人公はそこでついに世間の掟から解き放たれ、自らが白痴に、つまり豚になったのである。人間の作り出した掟はこのようにすべて取り払われ、人間は豚になることによって始めて人間たることができたのである。」
 

金杭さんの読解に対してわたしが差し出すほんのわずかな違和はただ、そこで主人公はついに「自らが白痴に、つまり豚に」なれないのではないか、という一点でしかない。

主人公・伊沢は、白痴の女が空襲の恐怖のもとで苦悶する顔が人間的な「心の影の片鱗」すらないことをおぞましく、醜いと観じる。

「虫のものですらもなく、醜悪なひとつの動き」――それは豚でも虫でもない、いかなる(人間的な)意味すらも伴わない裸の生命の動きである。

その生命の動きは、こう言ってよければ、翌日、かれがあちこちで見ることになる空襲で死んだ多くの死体よりも「あさましい」。

恐怖の下、伊沢に明らかになるのは、生命は死よりも醜悪であるということ――それが、文学的には、この作品のエクリチュールが到達する極点であり、もはや肉体ですらなく、「指の一本が胸にふれても反応を起こす女が、その肉欲すら失っ」たこの生命、この「むくろ」をそれでも主人公――そしてエクリチュール――は抱く。

そして、「抱いて無限に落下しつづけている、暗い、暗い、無限の落下だけがあるだけだった」というわけである。
 

問題は、女が「豚である」ことではない。

「女が豚である」と判断するのは、主人公であり、その限りにおいて、伊沢はけっして「豚」ではなく、「豚」にもなれない理性、あるいは自意識なのである。

「暗い、暗い、無限の落下」とは、肉体への落下ではなく、自意識の底なしの暗さである。

実際、テクストはこの「無限の落下」の直後に、むしろかれの殺意をすらほのめかしている。

かれは、「白痴の女が焼け死んだら」と想像し、そしてそれを「変に落ち着いて」想像している自分自身を見る

――「俺は落ち着いている。そして、空襲を待っている。よかろう。彼はせせら笑うのだった。俺は醜悪なものが嫌いなだけだ。そして、元々魂のない肉体が焼けて死ぬだけのことではないか。俺は女を殺しはしない。俺は卑劣で、低俗な男だ。俺にはそれだけの度胸はない。だが、戦争がたぶんおんなを殺すだろう」。

アブジェクシオン(abjection)――わたしは《卑劣》だからこそ、女をみずから殺しはせずに――それならば、まだ「人間的な意味」が残っていることになるだろう――空襲が女を殺すのを「待つ」のである。
 

そして空襲が来る。

激しい火が天から降りそそぐ。

猛火のなかを女とともに逃げまどいながら、追い詰められて、伊沢はついにひとつの「決断」をする。

群衆の逃げる道からそれて、あえて猛火のなかに飛び込むことで生き延びようとする。

「俺の運をためすのだ。運。まさに、もう残されたのは、一つの運、それを選ぶ決断があるだけだった」。

そしてかれは本能的に火を避けようとする女に「死ぬ時は、こうして、二人一緒だよ。怖れるな。そして、俺から離れるな。火も爆弾も忘れて、おい俺達二人の一生の道はな、いつもこの道なのだよ。この道をただまっすぐ見つめて、俺の肩にすがりついてくるがいい。分かったね。」

――すると「女はごくんと頷いた」。
 

テクストは言う――

「その頷きは稚拙であったが、伊沢は感動のために狂いそうになるのであった。(……)女が表わした始めての意志であり、ただ一度の答えであった。そのいじらしさに伊沢は逆上しそうであった。今こそ人間を抱きしめており、その抱きしめている人間に、無限の誇りをもつのであった」

――言うまでもなく、ここがこの作品のもうひとつの極点である。

こうして猛火を生き延びたあとに、伊沢が女をまたしても「豚」とみなそうが、それはどうでもいいのだ。

ここで「ただ一度」――コミュニケーションが成立し、そして単なる生命でも、単なる肉欲でもない、「人間」と「人間」とが触れあったのである。

その一瞬に、ミニマルの、しかし紛れもない共同体が生成したのだ。
 

こうして「白痴」という作品が鮮やかに見せてくれるのは、わたしの読解においては、あくまでも共同体の生成の「原・光景」である。

伊沢の「逆上」的な「歓喜」と「感動」は、この場面がどれほど強い「原・光景」であるかをはっきりと標識づけている。

なるほど伊沢は「決断」するのだが、それはただ「生き延びる」ための「決断」であり、「運」への「決断」である。

しかし、その「決断」がひとり個人にとどまらず、「ごくん」という「稚拙な頷き」によって二人に共有された瞬間に、その非常のまっただ中にひとつの小さな共同体が、瞬間、生み出されるのだ。

それは国家ではない。

国家はもはや不在である。

空襲とは、国家がもはやないことを意味している。

現前するのは、敵の国家だけであり、その敵の国家は、あらゆる国家の本質をそのまま「素っ裸」で見せつけて、あらゆる共同体を破壊しつくすのだ。

しかし、その破壊のさなか、猛火のなかから「生き延び」というたったひとつの「運」でしかない「決断」を通して、自意識の閉域に閉ざされた理性が「逆上」するような「感動」をともなって、「人間」の共同体が生成するのである。

それは、「豚」と「自意識」のあいだの共同体かもしれない。

性欲と殺意と卑劣と無関心に裏打ちされたアブジェクシオンの共同体かもしれない。

ほとんど狂気(=無為)の共同体かもしれない。

だが、けっして観念的なものではなく、たとえ一瞬にしても、途方もない強度――空襲の恐怖に拮抗するほどの強度――で存在する共同体なのである。

それは「日本人」という規定にも、日本の国家にも関与しない無名の共同体にほかならない。

しかも、それはただ単に自然なものなのではなく、「決断」と「ごくんという稚拙な頷き」(それもまた「稚拙な決断」の徴でなくてなんだろう)のあいだのコミュニケーションによってはじめて実現されたものなのだ。
 

そう、丸山眞男の国家批判の限界をかれが「恐怖と暴力に素っ裸の状態で向き合う個人の生命と肉体に出会うことがなかった」からだと批判する金杭さんの論文の余白に、わたしがあえて書き込んでおきたいと思ったのは、この小さなミニマルな生成する共同体のイメージであった。

(少なくとも金杭さんが論じた限りでの)丸山眞男においても、また金杭さん自身の論理構造においても、この共同体の次元はすっぽりと欠けているようにも思われる。

わたしの考えでは、丸山眞男の国家論の限界は、まさに、共同体ないし共同性の次元を取り残したまま、国家と個人とを内在的につなぐ道を原理的に求めようとすることにあった。

つまり国家を内在的に「根拠」づけようとするのである。

言うまでもなく、民主主義とは、本来的にあらゆる共同体の外部である国家を、民衆へと内在化させる近代的な理念であるが、それは丸山眞男が言うように「永久革命」としてしか思考できない。

逆に言えば、それはかならず失敗する。

われわれはついに国家を内在化させえない。

というのも、国家には内在的な「根拠」はないからだ。

国家は内在的に個人から生成しない。
 

そういう観点からすれば、丸山眞男的な国家批判が挫折するのは必然であったとも言える。

その挫折は、かれの思考が「素っ裸」の人間に出会いそこねたからではない。

国家という共同体の外部はけっして「素っ裸」の人間に出会いはしないのだ。

国家は確かに――フーコーが言う「生権力」だが――人間の生を識別し、管理し、そしてその極限的な、しかし同時にもっとも本質的な場面において、破壊し、殺す。

国家は、ある意味ではフィクションであり、実在的根拠を欠いているが、しかしそれゆえにこそ、それは、完全な無関心のまま、意味にかかわることなく、「素っ裸」の生を圧殺するという実効的な力を発現させる。

実在しないものが、実在するもの以上の破壊的な「外部」の力を発揮する――それこそ国家の根源的なパラドックスなのである。
 

「白痴」の主人公の「決断」は「運」につながり、かれは猛火のなか女を連れてなんとか生き延びる。

女は、「豚」のような「鼾声」をあげて眠りこけている。

この間に「女を置いて立ち去りたいとも思ったが、それすら面倒くさくなっていた」。

女に対して「微塵の愛情」もなかった。

未練もなかった。

しかし、「明日の希望がない」ところで「捨てる」こと自体にもはや最小限の意味もない。

そして伊沢は考える――「米軍が上陸し、天地にあらゆる破壊が起り、その戦争の破壊の巨大な愛情が、すべてを裁いてくれるだろう。考えることもなくなっていた」と。
 

「白痴」という作品の思考(それは紛れもなく思考の作品だ!)が辿り着いた最後の地点、つまり「おわり」はここである。

すなわち、「希望」もなく「おわり」もない、その純粋な「生き延び」を、「戦争の破壊の巨大な愛情」が「裁いてくれるだろう」。

卑俗な生の「生き延び」でしかない、このかりそめの、いつわりの、愛情のない「共同体」を、まるで「巨大な愛情」のように、戦争という「破壊」が、あるいは国家というものが、「裁いてくれるだろう」。

その国家が、米軍なのか、あるいは「帝国日本」であるのか、それはもうどうでもいいのだ。

国家が、まさに「素っ裸」の国家が、その「巨大な愛情」のような「破壊」によって、「外部」から、ということは、「おわり」として、「終 末(エスカトン)」として、やって来る(だろう)。

ようやく「生き延びた」この卑小な「セキュリティ」が、絶対的な「外部」である国家が「裁き」にやって来る(だろう)。

「白痴」である「生」が、ついに「国家」と――けっして出会わない仕方で――出会ったのだ。
 


 

以上が、本文一四五頁もある金杭さんの論文のわずか冒頭の一頁半の記述に対するわたしの反応である。

たしか金杭さんは、数年前にわたしが授業でこの坂口安吾の作品を取り上げたときに出席していた。

その縁を引き継いで、ささやかな応答可能性から出発して、「追伸」のような小さなノートを書き記し、その「友愛」のギフトを、――国家についての思考という困難な仕事を遂行する真正の研究者の誕生を祝って――ここに金杭さんに差し出す。


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