Arbre / 哲学の樹

思考のパルティータ 17: 〈歴史の真理〉に向かって (17)   小林康夫

昨夕のことなので、まだ多少の余韻が残っている。

あらたに別の思考を起動させるよりは、その余韻を少し延長してささやかな痕跡を残しておくことにする。
 
 

実は、昨日と一昨日と二日間にわたって、北京大学、国立ソウル大学そして東京大学の三つの大学による、若手研究者を中心とした哲学のカンフェランスが開かれた。

総発表数が46というのだから、かなり大規模なもので、言語はすべて英語。

わがUTCPがメインの共催者というわけで、冒頭と最後に挨拶をするという役割がわたしにまわってきた☆1。

オープニングの挨拶は期待に満ちた一種のアジテーションで切り上げたが、問題は最後の挨拶――一般的には、各方面への感謝を述べるプロトコールが期待されるところだが、わたしのなかの天の邪鬼というか、ジャズ・スピリットというか、がそれをゆるさない。
 

もちろん時間の制約があるからだが、書かれたテクストを発表者が読み上げ、それに対して「礼儀正しい」若干の質問が提起されるという決まりきった「学会」形式が判で押したように進んでいくことにいくらか苛立っていたこともある。

結局は、発表は「言いっぱなし」で、その一方通行にはいかなる出来事も起こらない。

人文系の学問は、そのときの学問の「前線」がどこにあるか、なかなか見えにくい。

しかも、「哲学」という大きなフレームのもとに多様なトピックを許容している今回のようなカンフェランスでは、それぞれの研究者の研究領域はほとんど重なることはなく、なかなか議論のためのプラットフォームが見えてこない。

となると、極言すれば、各人は自分の「業績づくり」のためだけに発表している様相を呈することになる。

それは、単に膨大なモノローグの集積以外のなにものでもない、ということになってしまう。
 

そのような虚しさからこのカンフェランスを少しでも救い出したい、という気持ちがわたしにはあった。

すなわち、この二日間、たとえ短い時間にしても、そこに相互性の原理、あるいは「友愛」の原理に貫かれた真正の「研究の共同体」が成立したことを示すこと。

そのためには、ひとつの発表が終わったところから、なにかがはじまるということを証明しなければならない。

つまり、他者の思考を受けて、ちょうどバトンが受け渡されるように、別の思考がスタートするという出来事が起こることを、とても短い時間内で、演出しなければならない。
 

そこで、――ほとんど即興的にだが――わたしはその日の午後、聞いた発表のひとつから短いテクストを拾いあげ、それをその直前の発表で問題になっていたドゥルーズ/ガタリの「リトルネロ」という概念に結びつけるという戦術をとった。
 

テクストは、ソウル国立大学のキム・サンファン先生が発表の冒頭で、自身がいまも自分の子どもに歌ってきかせていると言った、韓国に伝わる童謡のひとつ☆2。
 
 

On nights when the owl hoot, hoots,

Hoot hooting 'cause it's cold,

We all gather together,

Sitting by Granny,

And listen to old stories.
 
 

キムさんは、この童謡のなかに、「家の内/家の外」、「寒/暖」、「動物の声/人間の話」、「大人/子ども」などの人間の文化を成立させている根源的な二分法を読み取り、そこから出発して、もうひとつ別の、二十世紀初頭の詩人・金素月の詩を経由しながら、両者に共通して現われる「夜」というメタファーにわれわれの時代の危機を重ねあわせるという論の進め方。

だが、その発表を聞きながら、わたしの耳は、この童謡を、そしてその梟の声を、その直前の発表で鈴木泉さん(東京大学)が非人間主義という問題設定のなかで取り上げた、まさしくリトルネロとして聞いていた☆3。

たまたま連続した二つの発表のあいだに、それぞれの個別の主題を超えて、なにか一瞬の稲妻のような接合がわたしの頭のなかで起こったのであり、その「聞くこと」の不意撃ちのような出来事を少し強調して語り出すことにしたのである。
 

もちろん、英訳を通しての理解だから制約はあるのだが、しかしたぶんこの訳は原文の「音の遊び」をかなりうまく伝えているのだろう、まずなによりもこの童謡が梟の繰り返しの声そのものを繰り返し、模倣している(hoot, hoots, hoot hooting)ことが決定的であるように思われる。

そしてそのことによって、この童謡は、まさに人間の言語を、それによってさまざまな二分法に基づく人間の「文化」が成立する以前の、まだ人間的ではない、不気味な野生の反復へと送り返してもいるのである。

童謡は、寒い外に響く梟の声と暖かい家の中に響くおばあちゃん(Granny)の語る声とを二分して対照させると同時に、それを重ね合わせてもいる。

しかもそれは、音の次元だけではなく、この童謡の核にある複合イメージにおいては、おそらくおばあちゃんのイメージは梟を反復しているのだと思われる。

おばあちゃんは梟なのであり、じっと止まったままで、ひょっとすると子どもにはまだ十全には意味のわからない昔話を繰り返し語り続けているのだ。
 

昔話も童謡も、こうしてすぐれてリトルネロである。

それは、意味の構成を貫いて取り憑く(haunting)反復である。

それは意味を構成しつつ、同時に解体する。

領土化しつつ、同時に、脱領土化する。

そのような反復の横断的な運動である。

だから、リトルネロに対して、分類や分別をあてはめようとしても最終的には虚しいだろう。

そのような意味の区分をすべて、構成的かつ非構成的に、突破しつつ、それは取り憑き、機能するのである。

それは、「自然」と「文化」という根源的な対立をも脱臼させずにはおかないはずなのだ。
 

そのことを照らし出すために、キム・サンファンさんが採り上げたもうひとつの詩(キム・ソボル作)を一瞥してみてもいいかもしれない。
 
 

When withered leaves

Rustle down,

On long winter nights,

Sit together with Mother

And listen to old stories.
 

How have I

Come to be,

So that I am listening to this story?
 

Do not even ask,

Tomorrow, in the day,

I shall be a parent myself

And find out.
 
 

キムさんは、冬の夜の昔話という共通項を強調したが、わたしにとっては、このテクストは、意味――しかもまさしく「存在の意味」――を一人称の「わたし」が問うというその構造において、模範的なまでに近代的である。

冒頭に、音を立てて落ちてくる枯れ葉のリフレインが喚起されていないわけではないが、それはあくまでも戸外の風景にすぎず、その反復の音は家の内部に侵入してはこないのだ。

しかもその家の、そしてこの詩の中心に位置するのは、まさしく「意味」の問い、「わたしがここに存在する」ということの「意味」の問い(How have I come to be?)なのだ。

そしてこの「意味」を、このテクストは、「わたしもまた母(親)になる」、つまり「母」という生む存在こそが「意味」であり、その「意味」を「わたし」が未来において引き受けることこそがその答えなのだ、と告げているのである。

それは人間的な、あまりに人間的な「存在と時間」である。

だからこそここで昔話を語るのは「母」でなければならない。

「母」とは「存在の起源」としてあらゆる「意味」を孕む「存在」である。

一見するとここには「母になる」という反復があるように見えて、しかしそれはリトルネロではない。

意味のない落ち葉の落下の音はけっして「母」の連鎖を脅かしたりはしないのだ。
 

それに対して、最初の童謡では、童謡そのものがすでに梟の鳴き声によって領土化されてしまっている。

ここには意味の問いはない。

意味を問う主体もいない。
 

冬の夜、暖かな家の中でおばあちゃんの周りに子どもたちが「集まっている」(we all gather together)。

それは「家」であり、「領土」である。

しかし、そこには「父」も「母」も不在なのだ。

そうして、おばあちゃんはどことなく、もはや人間というよりは、非人間じみていて、まるで梟のようなのだ。

そのおばあちゃん=梟がホーホーと昔から変わらぬリトルネロを繰り返すのである。

その反復のリズムのうちで、人間と動物、自然と文化、意味と非意味といった、(人間の文化にとって重要な)あらゆる区別が失効する。
 

実は、――時間がなかったこともあって――当日は言わなかったのだが、わたしの頭のなかでは、このリトルネロのセリーはさらに反復的に延長されていて、梟の姿をしたおばあちゃんがいると見えて、実はそれが機械(マシーン)であるという光景が浮かんでいた。

「owl」あるいは「Granny」というロゴを打ち込まれた昔話ロボット!

――われわれはすでにそのような時代に突入してしまっているのではないだろうか。

だが、そのとき、その梟ロボットの周りに集っているのはいったい誰なのだろうか? 

どのような領土化が、あるいは脱領土化が機能しているのか。

ここには、非人間主義の哲学にとっての先鋭化された問いがあるはずなのだ。
 

この問いに突入することを危うく避けて、昨日のわたしは無難な着地を試みた。

周知の通り、梟(ミネルヴァ)はヘーゲル以来「哲学」のアイコーン。

韓国に伝わる童謡の小さなテクストのなかに現われる、黄昏の、あるいは夜の闇の中で眼を見張ってリトルネロを鳴き続ける梟にならって、われわれの哲学の思考もまた、時代の夜のなかで、警戒の眼、探求の眼を大きく見開いていなくてはならない、と。

それは、きっと東アジアの三つの国の若い哲学の徒たちに、もうひとりの梟が囁くリトルネロであったにちがいない。☆4
 
 

☆1 The 3rd BESETO Conference of Philosophy 「Philosophy in East Asian Context: Knowledge, Action, Death, and Life」(2009年1月10日‐11日)、東京大学駒場キャンパス。なお、BESETOとは、北京、ソウル、東京の英語表記の冒頭を並べたもの。この名称のもとでさまざまなかたちで三大学の交流が行なわれている。

☆2 KIM Sang-Hwan, "Why Metaphor of Night in Narratives on Culture".

☆3 Izumi Suzuki, "Philosophy of Non-humanism: Deleuze and Ritornello".

☆4 出来事が演出できたのかどうか、わたしが言うことはできないが、少なくとも形式的な挨拶という予期を転覆させたことは確かだろう。キム先生はたいへん喜んですぐに握手を求めに来てくださった。一瞬でもいいので、心が触れ合うという感覚が起こらないと学会という場も虚しいものになる。あとでこの三国とは異なる国からやって来たある若い外国人が言っていたが、まさにパッションこそが問題であったのだ。パッションを示すというか、露呈するということに対して臆してはいけないのだと思う。なお、のちのレセプションで韓国の若い研究者たちがこの梟の歌を歌ってくれた。静かな曲と思っていたのに、歯切れのいいリズミカルなリトルネロであった。


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