Arbre / 哲学の樹

思考のパルティータ 6: 〈歴史の真理〉に向かって (6)   小林康夫

先日、加藤敏さんらが組織する研究会「精神病理コロック」に参加した。

宮本久雄さんの特別講演「ヘブライイズムからみた他者論――モーセ物語を手がかりにして――」の指定討論者という役割を与えられて、宮本さんのハヤトロギア――いや、いまではそれはエヒイェロギアへと進化しているのだが――を全体的にコメントすることなどできようもないので、その立論の中心にあるモーセの物語に対して、宮本さんの角度とは異なる角度からの性急な読解を対置的に述べることしかできなかった。

だが、実は、わたしは、これ以前にも、宮本さんが創世記のアブラハムの物語に依拠して展開した論文(「『アブラハム物語』の現代的地平」)を取り上げて、わたし自身のアブラハム物語への読解を対置したことがあって、今回はそれに続くものである。

思いもかけず、――なんと贅沢なこと!――宮本久雄さんを導きの案内として、わたしはわたしなりに旧約聖書の物語群との《対決》を迫られ続けていることになる。

ここでは、そのときわたしが口頭で述べたことを補いながら、ほとんど即興的なわたしの「対・解釈」の概要を論じ直しておく。
 

なお、対象となるのは、いわゆる「モーセの召命」と呼ばれる旧約聖書「出エジプト記」第3章だが、そのテクストの全体はここでは引用しない。

宮本さん自身は、テクストの引用に続けて、みずからの解釈の要点を以下のようにまとめている――

「第一に、至高の絶対者神が、民の許に降下すること、第二に、エジプト人としてもイスラエル人としても自己同一性を喪った牧人モーセに奴隷解放を託すこと、第三に、『エフィエー』の反復を含む謎の神名の開示、第四に、有能で富み国家を形成している民でなく、なぜ奴隷のような卑小で徳もない無意味な人々に至高の神が関わるのか、第五に、奇妙な十の言(一般に十誡と言う)を民に与えたこと、第六に、なぜ奴隷の民に過酷な荒野の漂泊を四十年もの間課したのか、第七、民が金の雄牛(肥沃の象徴)を鋳造しその偶像礼拝によってヤハウェに対して反乱したこと、などが注目される」。
 

「カイロス(契約)的エヒイェ(自己脱在)」という視点からこれらの諸点を統合していく宮本さんの読解に対して、文献学的な知識を欠落させたわたしの「対・読解」はどちらかといえば、あえて失調的、あるいは転調的であることをお断りしておく。
 
 

わたしの読解の最初のポイントは、少なくとも問題の物語において、神がむしろ「至高の絶対者」としてではなく出現することにある。

神は、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と名乗る。

神がモーセに開示する自己規定は、絶対的な「父なる神」ではなく、あくまでも「父の神」、つまり「モーセの神では《まだ、ない》」存在である。

その「父の神」がいま――《いま、ここ》の現在!――において、回帰的に出現し、一方的にモーセを呼ぶ。
 

モーセは、イスラエルの子として生まれるが、男子を殺せというファラオの命に反して密かに隠し育てられ、その後、川に流される。

その水からファラオの王女によって「引き出され」(それがモーセという名の由来となる)養子とされてエジプト人として育てられるが、あるときイスラエル人が虐待されているのを見て、エジプト人を打ち殺してしまう。

つまりかれは、自己同一性を喪っているというより、自己同一性を獲得しようとして、あるいは求めて――まさにオイディプスと同じように、だが同時にオイディプスとは反対に――「父」、とはいえ「実の父」ではなく、「象徴的な帰属性(父)」を殺す(=存在抹消する)のである。

だが、同時に、そのようにエジプト(人)を打ち殺すだけでは、イスラエルという同一性を獲得できるわけではない。

誰も見ていなかったはずのかれの殺人の行為は、イスラエル人によって見られており、それゆえにかれはイスラエルからもエジプトからも否認され、追跡され、そうしてみずから荒野、つまり現実的な法の外部の場所へと逃亡せざるをえなくなる。

モーセとは、もうひとりの父を殺すことによってその法(エジプト)の《外》へ、しかしまだいかなる場所でもないところへ、「脱出」した者である。

その物語とは、なによりも二重の父の物語なのである。

(この点に関しては、本稿が対象とする物語のテクストの範囲を超えるが、モーセの物語のなかのもっとも不可解な部分、つまりのちにモーセがエジプトに戻るために砂漠を通過するときに、神ヤハウェが「かれを襲ってかれを殺そうとした」ときに、妻のチッポラがその息子の割礼を行なってその血をモーセの局部に触れさせ「ほんとうにあなたはわたしにとって血の割礼を受けたものです」と言うことで、神に殺されることを免れるというきわめて特異な部分――そこにこそ神の本質もモーセの本質も露呈しているというべきなのだが――を読まなければならない。それは、ある意味では、モーセが割礼というイスラエルの同一性の徴を――女によって、事後的に、それゆえ、暴力的に、しかし同時に、あくまでも「奇計」的に、というのはそれは「見せかけ」にすぎないのだから――蒙るという出来事である。モーセは割礼を受けたのか、受けなかったのか。いや、もしこのような二律背反的な問いの彼方で、もしモーセという存在そのものが「割礼」そのものであったとしたらどうだろう?)
 

いずれにせよ、荒野の奥で、モーセは神の徴を見る。

道のわきに茨があり、それが火と燃えているのに、しかし火は燃え尽きない。

その燃え尽きない火に誘引されて、モーセは「道をそれる」。

それはあたかもモーセという存在の固有の運動、モーセをモーセたらしめている運動の形式であるかのようであるが、その逸脱を見届けてはじめて神は「モーセよ、モーセよ」と呼びかける。

そしてモーセは答える――「わたしはここに(ヒンネーニー)」。
 

モーセの召命の場面は、語法的には、頻出する「いま」によって特徴づけられる――

「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、いま、わたしのもとに届いた」。

「いま、行きなさい。わたしはおまえをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。
 

のちに(第12章)で「イスラエルの子らがエジプトに住んだ年月は四三〇年であった」と言われている。

この長いあいだ、神は、みずから言うように(第6章)、アブラハムたちになした「カナンの地をあたえる」という契約を忘れていて、それを「いま」思い起こしたのである。

長いあいだの忘却、契約の忘却に突然、稲妻のように「いま」が召喚されると言うべきかもしれない。

それは、四三〇年のあいだの「歴史」のなかに「神が下る」というのではない。

そうではなくて、「歴史」のない連続的な時間のなかに、突然に、「歴史」的な「いま」が、――しかしあくまで回帰あるいは想起として――開かれる、と言ったらいいだろうか。

それこそ、宮本さんが言うように、まさに垂直的な出来事の「いま」であり、カイロス(契約)的な、しかしまさに「契約」の「回帰」としてカイロス的な(とはいえ、契約とはそもそもそのような回帰の時間性以外のなにものでもない)「いま」なのである。
 

契約が想起され、歴史が開始(=再開)される。

「いま、行きなさい」と声は言う。

「いま」とは「行く」ことである。

そしてそのとき、その「行く」ことこそが歴史なのである。
 

だが、いったいこのように一方的に、垂直的に、呼ばれ、召され、命じられたモーセという存在は何なのだろう。

モーセとは誰なのか。

モーセは神に言う、

「わたしは誰なのでしょう?」。
 

なんという力だろう。

われわれはモーセのこの問いに驚かなければならない。

ちょうどスフィンクスが発するけっして人間には解けないはずの謎にオイディプスがいともたやすく「人間である」と答えたことに驚くのと同じように、驚かなくてはならない。

神の召命、歴史への召命というこの出来事に不意を撃たれて、しかしひるむことなく、「わたしは誰なのか?」と神に問い返すことができるこの力。

それはオイディプスの場合と同様に、おそらくは人を殺す力とけっして無関係ではないのだろうが、それこそモーセの力、モーセという「人間」の驚くべき力であることをわれわれは見落としてはならない。
 

だが、人間にとってのもっとも根源的な問い、垂直的な歴史こそが明白な形でそれを課すとも言いうるこの問いに、神はどのように答えたか――

「わたしは必ずおまえとともにいる。このことこそ、わたしがおまえを遣わすしるしである」。
 

「わたしは誰であったのか?」――もし問いがこのように歴史のあるプロセスの終わりに発せられた問いであったなら、歴史 = 物語そのものがその答えを与えるものであっただろう。

だが、ここでは、問いは、まさに歴史 = 物語の端緒の「いま」からの問いである。

しかも一般的な問いではなく、あくまでも歴史へと「行く」ことを命じる神に向かっての反問なのである。

すなわち、ただひたすら歴史の垂直性に召喚されて、歴史へと「行く」べき「わたし」というこの存在は「誰」なのか?

神の答えは明白である。

一見すると問いをはぐらかしているかのように見えながら、しかしそれは、モーセの「誰」とは、まさに垂直の歴史、契約の回帰、つまりは神と名乗り命じる他者が「必ずともにいる」――そのような存在であると宣言するのだ。
 

この「ともにいる」は言うまでもなく「共在」ではない。

そうではなくて、おまえの「誰」は「必ずわたしがともにいる」ような「誰」であり、こう言ってよければ、おまえの自己同一性はもはや「かならずわたしがともにいる」とは不可分である、ということ、つまりは「憑在」なのである。

その意味では、モーセは「エジプト人としてもイスラエル人としても自己同一性を喪っている」というのではない。

そうではなく、神こそが、モーセの――二重であれ、二重の外部であれ、しかし最後まで残る――自己同一性を奪い、盗みとり、そこに取り憑く。

いや、それではまだ正確ではない。

神は一方的にモーセに取り憑いてかれを支配するのではなく、あくまでもモーセの主体性の残余を残し、モーセと契約することで、取り憑く。

自己同一性をそのままにして、それを利用しながら、それを奪うとでも言えばよいか。
 

それがゆえに、この時点においてなお、モーセは神に対して、神の名、みずからとの、あるいはイスラエルの民との契約の当事者としての名を明かし、教えるようにと求めることができるのだ。

「彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名はいったい何か』と問うにちがいありません。かれらに何と答えるべきでしょうか」

――それは、もし「わたしは誰なのか?」の答えが「わたしは必ずいつも他者とともにある」のであるならば、ではその「他者」とは「誰なのか?」という問い返しと言っていい。

わたしがそれであるわたしの他者とは誰なのか?

――よく知られているように、それに対して神は、「エヒイェ・アシュル・エヒイェ」という謎めいた神名を開示する。
 

この神名については、稿を改めることにして、ここでは、モーセの物語のテクストは、この章に続く部分(第4章)で、まさにモーセと「ともにある」ものとして杖を指示していることを補足しておく。

神がモーセとともにあることをイスラエルの民が信じないときに、それを信じさせる三つの方策の第一のものが、モーセが手に持つ杖である。

神に命じられてかれがそれを地に投げると、それは蛇となり、モーセが手にとるとふたたび杖になる、というものである。

ここでテクストがかならずしも語っていないことを想像によって補うとすれば、物語の冒頭においてモーセがエジプト人を打ち殺したとき、かれは「杖」を用いてそうしたのかもしれない。

杖はモーセの一貫して変わることのない紋章であり、象徴であり、付随物つまり「かならずともにある」ものである。

その杖によってモーセはエジプトを打つ。

そして神はモーセを通して、モーセを使ってエジプトを打つ。

モーセは神の「杖」なのであり、同時に、神は「杖」としてつねにかれと「ともにある」のである。

そして物語が明かすように、「杖」とはまた「蛇」なのでもある。

モーセのもはや単純に自己同一性とは言い得ない、すでに他者によって取り憑かれ、他者との存在論的な契約を引き受けた憑在的自己同異性は、「蛇」としても現象する「杖」である。

その「杖」はなにかを、何者かを「打つ」ことで、境界を突破し、「脱出」を謀ろうとするのだ。
 

(この項、つづく)


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