「カフカは聖人だったか?」Was Kafka a saint?
――アメリカから届いた郵便のなかに数葉のコピー、その論文のタイトルがこれだった☆1。
差し出し人にして著者はダヴィデ・スティミッリさん(コロラド大学)。
今年の1月に来日してアヴィ・ヴァールブルクについて講演していただいたときに、UTCPで刊行しているわたしの個人欧文論文集(『Le Cœur / la Mort』)を差し上げた。
帰国の飛行機のなかでこれを読んでくれたらしく、なかにわたしがベンヤミンのカフカ論のなかからとりわけ「カフカは祈ったことはなかったが――そんなことはわれわれの知らざるところだ――マールブランシュが《魂の自然な祈り》と呼んでいる、あのよく行き届いた心づかいこそ、いかにもかれにふさわしかった」☆2という引用中の「よく行き届いた心づかい」つまり「注意」という概念に触れたものがあることに応答してくれたのだろう、まさにその同じ引用で締めくくられる自分の昔の論文を送ってくれたというわけだった。
こういうことは端的に嬉しい。
しかもそれは、ささやかではあるが、――「思考の経験」にとっては、と言おうか――きわめて重大ななにかを含んでいるようにわたしには思われる。
つまり、ある種の同時代性と言ってもいいが、時代の同じ「波」をサーフィンしているという感覚。
わたしがベンヤミンとカフカについて考えていたのは、『起源と根源』に収められた論文の時代だから1990年の前後、スティミッリさんの論文は1994年の雑誌に発表されたもの。
多少のずれはあるが、しかし世界の異なった場所で、異なった文化背景をもった人間が、同じトピックをほとんど同じような角度から問題にしているという事態である。
もちろん、そうした同時代性がそのとき明確にわかっているわけではない。
今度の場合でも、十数年も経過して、二人の「サーファー」のあいだにやっと「目配せ」の合図が交わされたということなのだ。
だが、同時に、海の波は岸に砕け散って、――ヘラクレイトスのように言おう――誰も「同じ波」に繰り返し「入る」ことはできないが、「思考の波」はそんなことはない、「同じ波」が無数の異なった仕方で、ずっと「時代の岸辺」に打ち寄せ続けているのだ。
これは、わたしの個人的な思いにすぎるかもしれないが、われわれはもはや、いくつかの卓越した思考が燈台のように孤独に輝いて世界の闇を照らしているという風景よりは、――「波」の特性はまさにひとつの波が無数の他の波の「重ね合わせ」として「存在する」ということなのだから――World Wide Wave.!、「時代」の大きな「波」が有名無名の多くのサーファーを巻き込みながら歴史といううねり続ける海面を揺動させているという風景を想像するべきなのだと思う。
グローバルCOEを運営する立場にあるせいももちろんあるが、最近は、こういう経験が増えてきている。
先週も、パリの動物学者のドミニック・レステルさんから紹介されてお会いしたクリストファー・フィンスクさん(アバディーン大学)、モーリス・ブランショの研究家でもありさっそく今週は講演をお願いしてあるが、今回の来日の目的は日本料理の秘められた「spirituality」を経験することだと聞かされて、それならとわたしにとってそれが感じられる場所にお連れしたのだが、会って話しているうちにこの連載(第5回)でも触れた1980年のスリジー・ラ・サルのジャック・デリダの仕事をめぐる10日間の合宿討論会に二人とも出席していたことがわかって、ほら、あなたがあの発言をしたときに、わたしはこのあたりに座っていたんだ、とそのときの光と時間とが一挙に甦る。
さらにわたしも親しかったジャン=フランソワ・リオタールをビンガムトン大学に招いたのもかれだったときいて、ほぼ同じ年代にかれはニューヨークを、わたしは伊勢と京都を案内したんだなあ、と――ノスタルジーなしにではなく――お互いがある意味では「同じ学び」を経過し、「同じ波」をサーフしていることを確認したのだった。
これをブランショ風に「友愛」と呼んでいけない理由はないだろう。まったく知り合うことなく、しかしわれわれはすでに「友人」であったのだ。
このような経験から出発して、「わたしの思考」は、もし思考が歴史の海をうねりわたっていくアノニマスな「波」であるのなら、特許などには無関係で、物質的な利益に直接結びつくことのない「思考の経験」からは個人的な所有権をいっさい解除してしまったらどうか、――もちろんそれでもなおスタイルは残るのだろうが――いっさいの我有(「我思う」)を放棄してもいいのではないか、という方向に行こうとするのだが、これを論じるのはたぶん時期早尚、冒頭に置き去りにしたスティミッリさんの論文に立ち戻ることにしよう。
この論文は、カフカの遺志を破って遺稿を燃やさずに公刊した友人マックス・ブロートによるカフカの聖別、それに対するベンヤミンの批判から出発して、現代すなわち「神が死んだ」時代における「聖人」の存在の条件と論理を問うもの。
スティミッリさんは、ショーペンハウエル哲学の究極とも言える自己を断念した禁欲的な「聖人」のフィギュール、それに対するニーチェの激しい批判を対角線上に展望しつつ、むしろ神の不在というモデルニテの根本的な条件のもとで、――ローゼンツヴァイクの表現を借りてだが――古典的な「英雄」のフィギュールに代わる、モダニティの受肉そのものとしての「聖人」のフィギュールの誕生をカントにまで遡って検討する。
「『人倫の形而上学』(1797年)の最終セクションにおいてカントは、禁欲主義による徳の崇拝は人間にとってみずからの道徳的健康を維持するための《一種の食餌療法》以上のなにものでもないと書いている。
健康という概念がこの文脈に導入されるということは、聖なるものと俗なるもののあいだに、そして字義通りの意味と隠喩的な意味とのあいだに感染が起こっていることを密かに告げているのだが、これこそカントの歴史的なポジションを特徴づけるものなのだ。
すなわち、かれは聖人がもはや厳密に宗教的な伝統の内部では理解されず、ただほかのものと並ぶひとつのキャラクター、ひとつの人間類型になってしまう歴史的転換に位置しているのである。
《健康》sanityはそれゆえ《神聖》sancticityの世俗化されたヴァージョンであり、それを「啓蒙」はその後数世紀にわたって遺贈することになる。
すなわち、己れ自身を定まった《衛生の処方》に従わせることによってはじめて到達することができるようなある種の《精神的衛生》が、(たえず脅かされる)《健康な人間悟性(常識)》の全体性を維持するために必要不可欠なものと認識されるのだ。」
だが、《神聖》を《健康》へと翻訳しようとする「啓蒙」の企ては失敗する。
モダニティは、ある意味では、「啓蒙」という計画をほとんど回復不能な仕方で突破してしまうからなのだが、スティミッリさんによれば、その挫折を、ある種の精妙なパロディを通じて明確に語っているのが、カフカの短篇「断食芸人」なのだ。
断食芸人は、見世物というモダニティの世俗的本質そのものの空間のなかに棲息する「聖人」であり、同時に「英雄」でもある。
物語は冒頭でその栄光を喚起している――
「(……)都市全体が断食芸人でもちきりだった。断食日から断食日と関心は高まる一方で、猫も杓子も断食芸人を少なくとも日に一度は見ないと気がすまなかった。後日になると、格子のついた小さな檻の前に何日も坐りこんでいる予約申込者さえいた(……)」。☆3
ところがこの栄光が突然、消滅する。
作品はまさに「ここ数十年というもの、断食芸人にたいする関心は甚だしく衰退した」という一文ではじまっている。
実は、スティミッリさんはこのことはあまり強調していないのだが、物語は、この歴史的な変化、理由のはっきりしない、しかし回復不能の「変動」のまわりをこそ巡っているのだ。
テクスト、いや、「物語作者」は、言う、
「それはほとんど突然に生じたのだった。もっと深い原因があったかもしれないが、それをほじくりだそうなどとは誰も思いはしない。とまれ、ある日のこと、名声に馴れた断食芸人は、娯楽を求める大衆がとつぜん自分から離れて他の見世物に流れてゆくのをみた。」
そこで断食芸人は「唯一無二の相棒だった興行主に暇をやって、自分はある大きなサーカスにやとわれ」ることになる。
しかしかれの断食小屋が置かれるのはサーカスの舞台の上ではなく、動物小屋にもっとも近いところ。
そこにサーカスの幕間に群衆が殺到する、と見えて、実は群衆は断食芸人には一瞥をくれるだけで無視し、みな動物小屋の方へ行ってしまう。
そのところに物語作者はわざわざ「どんな頑強な、ほとんど意識的でさえある自己欺瞞でも、この経験には太刀打ちできなかった」と解説する文を挿入している。
断食芸人は追いつめられる。
そしてかれはとうとう以前は40日間でやめていた断食を無期限に、ということは終りがない仕方で、ということは「終り」つまりその死に至るまで行なう。
そして死の閾にあって、かれは人生の秘密を打ち明ける。
それは、かれの断食がいかなる意味においても「聖なる」つまり《衛生の処方》や《精神の健康のための規律》ではなく、身も蓋もないまでに徹底して世俗的なものであったかを明かす言葉である――
「わたしは美味しいと思う食物がみつからなかったんだ。美味しいものがありさえすれば、なにも人気集めなどしなくても、おまえやみんなのようにたらふく食べてくらしていたと思うよ」。
ニーチェが批判したように、「神なき時代」においては「聖人」というフィギュールは時代錯誤の理解不能なもの、つまり単なるグロテスクとなる。
物語作者は皮肉をこめて「ためしに、誰かひとりをつかまえて、断食のことを説明してみるがよい! 感じることのない人間には、わからせようとしても無理だ」と言っている。
だが、同時に、この断食芸人は「啓蒙」が失敗するまさにこの地点において引き返すことのできない転回を断行する。
というのもかれはそこで自己欺瞞の構造を突破するからだ。
かれはものが食べられないのであり、断食など限りなくできるのであり、このみずからの生得という意味で自然の「能力」を死という限界に触れるまで行使するのだ。
ここには超越的なものはいっさいない。
規律も法もない。
だから「聖なるもの」もない。
と見えて、しかし逆に、そこにこそモダニティの究極の「聖人」のあり方が打刻されていると読むこともできる。
すなわち、「聖人」はもはや「聖人」として聖別されない。
断食芸人自身が明かすように、人々が「驚いて」尊敬するべきいかなるものもなく、社会の無関心のなかでただ藁くずのように死んでいくだけだ。
だが、孤独のなかで聖なる光にも包まれることなく消えていく、もはや侵すべきなにものもないがゆえに「不可侵な」inviolable――スティミッリさんはこれこそ「holy: heilige: sacer」など一連の言葉の語源的意味だと説明している――存在こそが、忘れられ、隠され、無視された「聖人」のもうひとつのフィギュールなのではないか。
「みずからの肉体的実存の力そのものによって、肉体の肉体性を否認すること」、それをスティミッリさんは、翻訳しがたい言葉だが、「elussiveness」と呼んでいた。
影の薄い、いまにも消え入りそうな遠ざかっていくイメージと言っていいだろうか。
それは言うまでもなく「evasiveness」につながっていくイメージである。
スティミッリさんの論文は、カフカ自身の生前の肉体の「elussiveness」を経由して、この受動的な《elussiveness-evasiveness》を能動的な受動性とも言うべき《attentiveness》(注意/よく行き届いた心づかい)に裏打ちされていることを指摘することで終わっている。
すなわち、「断食芸人」とはまたカフカ自身の密かなフィギュールでもあったということになるだろうか。
ベンヤミンとともに、スティミッリさんもわたしも、カフカのつねに遠ざかっていくパロディ的な、しかし深い「祈り」そのものである「聖性」ににっこりと微笑むのだ。
誰かがもう言っているのかどうか知らないが、断食芸人は、なんという暗合だろう、「馬小屋近くの藁のなか」に消えていくのだから。
☆1 Davide Stimilli, "Was Kafka a Saint?", in Litteraria Pragensia, vol. 4, n. 8, 1994.
☆2 晶文社版「ベンヤミン著作集」第7巻(1969年刊行)の高木久雄訳に従う。
☆3 翻訳は新潮社の旧版全集第III巻の山下肇訳によるが、「断食行者」ではなく「断食芸人」に代えさせてもらった。また、その訳に従わなかったところもある。
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