このような経験から出発して、「わたしの思考」は、もし思考が歴史の海をうねりわたっていくアノニマスな「波」であるのなら、特許などには無関係で、物質的な利益に直接結びつくことのない「思考の経験」からは個人的な所有権をいっさい解除してしまったらどうか、――もちろんそれでもなおスタイルは残るのだろうが――いっさいの我有(「我思う」)を放棄してもいいのではないか、という方向に行こうとするのだが、これを論じるのはたぶん時期早尚、冒頭に置き去りにしたスティミッリさんの論文に立ち戻ることにしよう。