Arbre / 哲学の樹

思考のパルティータ 1: 〈歴史の真理〉の方へ(素描)   小林康夫

―― 〈ロゴス〉もまた人間のうちで実現されるものとして、だがけっして人間の所有物としてではなく、記述しなければならない。 (モーリス・メルロ=ポンティ 『研究ノート』)
 
 

颱風の余韻がまだ残っていてときおり強い風が吹き、窓硝子の向こうの街路樹がゆさゆさと揺れているのを眺めながら、枝ごとにけっして一様ではなく、複雑な動きで揺れるあの葉群の運動にも、そして遠くの空を横に走っている幾筋ものアモルフな雲の形にも、突きつめればとても単純な形式で書くことができる「理」があって、しかしそれらは、けっして意味も価値も構成しはしない。

意味からも価値からも遠く、「あるべきようにある」と言葉で言うことすら、すでにひどい錯誤にちがいないように「ある」ことに、あらためて眼を瞠りながら、いったいどのようにして歴史は可能なのか、とおそるおそる問いはじめる。
 

いや、言うまでもなく、こんな問いは無謀であることは承知だ。

われわれははじめから歴史のなかに存在している。

世界の外に存在することを考えることができないように、歴史の外に存在することなどほとんど考えられない。

世界内存在という言葉があるのなら、われわれはそれ以上に、そしてそれと重なるように、歴史内存在であると言わなければならない。

思考も科学も政治も芸術もいや、いわゆる文化だけではなく、経済も生産も、人間が構成するものは、歴史というわれわれの根源的な存在様態に貫かれた事象であるわけであり、かつ歴史そのものがそのようにして構成されたもののいっさいなのだから、そのような根源的な地平であるものをそのものとして「問う」などということは、あるいはいくつも既存する、どれも単一性へと収斂する素敵な終末論を応用するか、あるいは「絶対精神」などという大それた装置――どちらも究極的には「エスプリ(精神 = 聖霊)」にかかわるのだが――でも発明しない限りは、とても可能とは思われない。
 

だが、それでもなお、臆面もなく、あえてこの問いを掲げてみたというのは、結局、フィロソフィアの問いは、それがどのようなものであろうとも、究極的には、歴史のなかに存在するということの水圧のような重さが、思考のうちに問いとして析出してくるのでありながら、しかしこの水圧が何なのか、どこからどのようにやってくるのか、問う者自身にはいつまでも不明なままだからである。

おそらく、歴史のなかにいるということは、その不明の重さを感覚し、受動し、ときには――それぞれの〈機〉とともに――担うということなのだろう。

思考もまた、その重さを、まるでひとつの純粋な苦のように受けとめて、問いを突出させる。

いや、実は、まさにそのこと、その奇妙な感覚を書きとめておくためにこそ、わたしはこのようにはじめざるをえなかったのだが、思考とは、その意味では純粋な苦である。

歴史内存在という根源的な苦の様態からの、その不可能な「外」を指向しつつ言葉へと析出する、おそらくはじめから正解などない、かならずしも正解を求めているわけではない問いなのだ。
 

だが、苦と言う以上は、そこからの脱出もまた密かに賭けられていないわけではない。

これもまた乱暴な、かつ性急な言い方――しかし思考にはつねに時間が欠けている(切迫だけがその唯一の味方なのだ)――だが、真正なフィロソフィアはつねに、究極的には、その苦から、つまり歴史から、脱出し、そこから救済されることを、まるで黄昏の窓辺にたたずむ旅人のように、夢見ているとわたしには思われる。

いや、「救済」という言葉はタブーであって、誰もあからさまにそのような最後の言葉を言挙げはしないし、むしろなんらかの神的なものによる、ということは〈信〉による、救済の保証を断念しない限りは、フィロソフィアの思考など始まりはしないのだが、しかしその鮮やかすぎる断念のうちに、明かしえぬ非望が密かに息をこらしていないわけではない。

あるいは、別な言い方をするならば、〈信〉においては、救済されるべきは、――魂であれ、心であれ、精神であれ――「その人」でなければならないのに対して、フィロソフィアの思考が願うのは、それそのものが、そのまま歴史の、歴史からの、救済であることなのである。

〈その人〉ではなく、――それがいったい何なのか分明なわけではないのだが――歴史を救済すること、あるいはそれを解消すること、つまりそれをそのまま、たとえば、〈真理〉と化すこと――思考は、それがどれほど貧しいものであれ、自分なりの「歴史哲学テーゼ」を書こうとしていると言ってもいいかもしれない。
 

〈歴史の真理〉――正直に白状しておくなら、わたしは、いまだに、この不思議な、禍々しくもある標識のもとになにかを考える用意があるとは思えない。

しかし同時に、いま、もしその標識が示す方向へと曲がりなりにもなにか言葉の連鎖を開始するのでなければ、それはわたしの可能性から永久に失われてしまうだろう、という切迫した予感もある。

その切迫だけが、すでに、――苦々しさなしにではなく――ある種の愚かさを覚悟している思考に対して呼び出されるべき身元保証人というわけだ。
 

しかし、それにしても「歴史」という言葉はあまりにも茫漠としている。

まずはその意味の射程をいくらかは限定するべきではないか? と思われるのは当然のことだが、わたしは、自身にも不分明な根拠なき根拠に従って、その言葉をできる限り無限定に、ときには多元的な曖昧さの下で語らせることにしたい。

わたしが、ある意味では思考する者の実存に、見えない水圧のように重くのしかかり浸透してくるものを「歴史」と呼ぶとすれば、それは、たとえばなんらかの仕方で「書かれた」歴史とは区別されるべき、むしろ歴史のエクリチュール――フィロソフィアもその核心的な部分ということになろう――を要請し、要求し、また招待するものとしての、ある種の「野生の歴史」であることは明らかだし、そうであれば、そのような「歴史」そのものが、実は、けっして非歴史的な一般性なのではなくて、むしろモデルニテ(近代)という歴史のひとつの時代――そこからわれわれは解放されているわけではない――の強力な相関者であることも明らかだろうが、しかしわたしとしては、まさにそのモデルニテの「終わりなき終わり」、あるいは「終わりの終わり」――ここでは、仏語や英語を経由しつつ「終わり」fin, endがそのまま「目的」に重ねられていることは言うまでもあるまい――が問題となるがゆえに、あえて個々の限定は文脈に委ねることで、その本質的な曖昧さ、いかがわしさ、統御不能の不純さをそのままに、生かしておきたいのだ。
 

実際、モデルニテという「時代」は、まさにはじめて、ほとんどはじめて歴史が「時代」として〈みずからを規定する〉(という再帰的語法をおゆるしあれ)「時代」であったと言えるだろう。

これ以降、歴史は、それ以前に関しても、また「来たるべき」それ以降に関しても――「時代」という区切られた「区分」として現われてくる。

モデルニテは、まさに「古(代)」からみずからを切断することでひとつの「時代」として確立するのだが、それは同時に、みずからを「来たるべき時代」への切断を孕んだ飛躍のための助走とも位置づけるのだ。

「時代」は出来事によって区切られる。

この来たるべき出来事、あるいは、来たるべきものの出来事――それこそ、モデルニテの「夢」であった。

それが「大きな物語」によって描写されていようが、そうではなく本質的な無名性のもとに置かれていようが、「来たるべきもの」という指標こそこの「時代」のもっとも激しいドミナントであったことには変わりはない。

「来たるべきもの」は、それそのものとしては、〈正義〉でも、〈善〉でもなく、ほとんど理念ですらないがゆえにこそ、逆に、あらゆる倫理規範そして感性規範の最後のキー・ストーンでもあったのだ。
 

もちろん、この「時代」が終わったわけではない。

モデルニテの「時代」が終わって、もうひとつの新しい「時代」がはじまったわけではないのだ。

「時代」のただなかで、飛躍によって保証された非・連続性というはっきりとした「区切り」を通して「来たるべき時代」が来るという、かくも強固であったヴィジョンそのものがほとんど気づかれるか気づかれないかのうちに変容し、変質した、とでも言ったらよいか。

「気づかれるか気づかれないかのうちに」――それは、意識の周縁領域、ボーダーライン、そのトワイライト・ゾーンにおいて、ということを意味する。

モデルニテとは、ひと言で言うならヴィジョンとしての「時代(歴史)」と対になった「中心性」あるいは主体性の意識である。

もちろん、中心性を確立しようとし、確立した瞬間に、実はそれが無根拠であることに否応なく気づいてしまい、その「無」に戦きながら、あるいは闘争を通じて崇高化することによって、あるいは反復によって、あるいは「来たるべきもの」へと自己投企することによって、あるいはまさに周辺へ、可能ならば「外部」へと逃走を夢見ることによって、いずれにせよみずからを未来へと預けること――そのような自己の、必然的に「より固有の」自己の未来への預託――お望みならば投げ出し(投企)――の構造こそがモデルニテの思考がとった戦略でもあった。

ニヒリズムはモデルニテの不可分の影であったのだ。
 

生には死が、理性には狂気が、そして言葉には沈黙、意味には無意味が離れがたくつきまとう。

その思考が繊細で感受性が強ければ強いほど、それはみずからの企図を危うくする無の影をみつめないわけにはいかなくなる。

この影から逃れるにはどうしたらよいか。

どうしたらみずからの影を消すことができるか。

言うまでもない、もはや未来へと意味を預けるのではなく、即刻、いま、現在の「真昼」の光の下に立つ――おお、ニーチェよ、これこそ、モデルニテが見出した究極の回答にほかならない。

もはや価値ではなく、意味ではなく、ただひたすら強度である。

「真昼」の強度の下で、みずからの存在をそのまま「恍惚 = 脱・存在」と化す。

それがモデルニテの実存の究極の「夢」であったのだ。
 

それがすべて別のものに置き換わって「時代」が回転したというわけではない。

この基本構造はいまだに強固にわれわれの現実の基盤を構成している。

だが、にもかかわらず、その基盤の上で別の事態が起こっていると言うべきか、まるでそこに別のフィルターが重ね合わされたかのように、まさにその強度の「夢」そのものが希薄化しはじめている。

そしてそれは、周縁から、つまり実存の周縁からこそ起こってくるように思われる。
 

もちろん、これは、相変わらず緻密なロジックを積みかさねることを省いた直観的なピクチャーにすぎないのだが、中心が――空虚であれ、そうでないのであれ――動かない、ほとんど緩慢にしか動かないのに対して、周縁においては、すべてが急速に変化しているという事態である。

すなわち、強度という究極の(非 = )倫理規範、(非 = )感性規範に置き換わったり、それを失効させたりするのではなく、しかし速度の勾配がそこにフィルターのように重ね合わされるということ。

そしてその速度が中心性を、つねに遅延した、ほとんど無力なものにしてしまうということ。

その速度が意味ではなく(意味はつねに遅れる)、むしろ技術的であるということ。

その技術的な速度が実存の中心性を希薄にさせ、同時に、耐え難く軽くするのである。
 

われわれの「時代」の変質、というより「時代」という理念そのものの変質、いや、もっと言うならまさに質への変化とも言うべき変「質」が問題になっているのだが、それを規定する仕方がいろいろあるなかで、ここではそれを速度の問題として、つまり強度から速度へ、ではなく強度よりは速度を、という変化として、言い換えれば、質としての速度へという変化として、把握する方向へと考えようとしているのだ。
 

それは、人間にとっての時間が、つまり微分的な速度として、つまりスピード、テンポ、迅速さとして現われてくるという事態である。

それは、そういうものが仮想できるとして、あの現象学的な、根源的な「生き流れる現在」よりは、きっとはるかに速い。

われわれにとっての時間は単一に同期してはいないどころか、むしろさまざまに速度の異なる時間の接合的な統合(かつ非統合)こそが、われわれの時間の経験にほかならない。

われわれが現在、了解しているような「歴史」がモデルニテの発明であるとしたら、それと同時に、実は、歴史のほうは、もはや単一の目盛りによって区切られた時間構成ではなく、こう言ってよければ歴史を超える超・歴史的なもの、さまざまに異質の速度が混在するカオス的なものへと密かに変質しはじめていたのかもしれない。

その変質がおそらくは、われわれの「時代」に一挙に、まさに指数関数的に顕在化してきたのである。
 

実存にとっては時間は根源的な経験であり、あらゆる実存の哲学は、時間についての主体的な経験のうちに、自己と歴史とを意味において調停するという道(ロゴス)を究明した。

だが、まさに歴史が示すのは、歴史は、このように先取りされた意味よりもなお速い、おそらく本質的に速い、ということではなかったか。

おそらく歴史とは、意味の空間のなかにあるのではなく、もっと外部的な、より技術的なもののなかにあるのだろう。

時間を超えた速度、意味を超えた技術――そこではかならずしも意味には還元できない「質」が問題となるように思われる。


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