わたしが、ある意味では思考する者の実存に、見えない水圧のように重くのしかかり浸透してくるものを「歴史」と呼ぶとすれば、それは、たとえばなんらかの仕方で「書かれた」歴史とは区別されるべき、むしろ歴史のエクリチュール――フィロソフィアもその核心的な部分ということになろう――を要請し、要求し、また招待するものとしての、ある種の「野生の歴史」であることは明らかだし、そうであれば、そのような「歴史」そのものが、実は、けっして非歴史的な一般性なのではなくて、むしろモデルニテ(近代)という歴史のひとつの時代――そこからわれわれは解放されているわけではない――の強力な相関者であることも明らかだろうが、しかしわたしとしては、まさにそのモデルニテの「終わりなき終わり」、あるいは「終わりの終わり」――ここでは、仏語や英語を経由しつつ「終わり」fin, endがそのまま「目的」に重ねられていることは言うまでもあるまい――が問題となるがゆえに、あえて個々の限定は文脈に委ねることで、その本質的な曖昧さ、いかがわしさ、統御不能の不純さをそのままに、生かしておきたいのだ。