いや、「救済」という言葉はタブーであって、誰もあからさまにそのような最後の言葉を言挙げはしないし、むしろなんらかの神的なものによる、ということは〈信〉による、救済の保証を断念しない限りは、フィロソフィアの思考など始まりはしないのだが、しかしその鮮やかすぎる断念のうちに、明かしえぬ非望が密かに息をこらしていないわけではない。