だが、それでもなお、臆面もなく、あえてこの問いを掲げてみたというのは、結局、フィロソフィアの問いは、それがどのようなものであろうとも、究極的には、歴史のなかに存在するということの水圧のような重さが、思考のうちに問いとして析出してくるのでありながら、しかしこの水圧が何なのか、どこからどのようにやってくるのか、問う者自身にはいつまでも不明なままだからである。