あるいは、別な言い方をするならば、〈信〉においては、救済されるべきは、――魂であれ、心であれ、精神であれ――「その人」でなければならないのに対して、フィロソフィアの思考が願うのは、それそのものが、そのまま歴史の、歴史からの、救済であることなのである。